乃木希典 殉死 写真 8

休説區々風物美 (説くを休めよ区々風物の美) 職業; 軍人. 日本武家社会において、殉死は中世から近世に行われていたものの、江戸幕府によって禁止されました。, なぜ彼は明治天皇の後を追わなければならなかったのか、その考えられている理由についてご紹介します。, 当時から多くの解釈がなされたそうですが、考えられている理由を二つほどご紹介します。, その際、連隊旗を持っていた河原林少尉が討たれ、薩摩軍に旗を奪われるという事件が起こりました。, 本人が書いた遺書の内容とは別に、乃木希典が殉死した理由はこちらではないかとも考えられているようです。, しかし日本の陸軍は乃木の指揮により、わずか半年という短期間で旅順を攻略してしまったのです。, 帰国した乃木は明治天皇に、多大な犠牲を出してしまったことに対する罪をつぐないたい旨を伝えたといいます。, 乃木希典は多くの若者の命を犠牲にしてしまったことに対する、自責の念にかられていたようです。, ③ 遺書の内容とは別に、日露戦争で多くの犠牲を出したことに対する自責の念が理由とも言われている, 乃木希典の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。 最終的には乃木は罪を問われずに済んだものの、山県が自ら乃木の失態を赦したようにもとれる記述でしたので、気になりました。 大正元年(1912)9月13日、陸軍大将・乃木希典のぎまれすけが自刃しました。 この日は明治天皇が大喪たいそうの礼が行われた日。 日本武家社会において、殉死は中世から近世に行われていたものの、江戸幕府によって禁止されました。 というわけで、時代錯誤ともとれる乃木希典の殉死。 その際、出席者の一人が、乃木に対し、蓄音機に声を吹き込んで欲しいと依頼した。すると乃木は、「おう、それはおもしろい。皆さんと一緒に吹き込もうではないか。」と述べ、三上参次文学博士の紹介に次いで、「私は乃木希典であります」という声を吹き込んだ[235]。, この音声は、昭和5年(1930年)12月に相談会の出席者でもあった小笠原長生の解説を付して「乃木将軍の肉声と其憶出(乃木将軍の肉声)」として発売された[236]。 後々まで恥を残すような写真を撮らせることは日本の武士道が許さぬ, こうした乃木の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され賞賛された[114]。また、この会見を題材とした唱歌『水師営の会見』が作られ、日本の国定教科書に掲載された[115]。, 乃木は、1月13日に旅順要塞に入城し、1月14日、旅順攻囲戦において戦死した将兵の弔いとして招魂祭を挙行し、自ら起草した祭文を涙ながらに奉読した。その姿は、日本語が分からない観戦武官および従軍記者らをも感動させ、彼らは祭文の抄訳を求めた[116][117][118]。, 乃木率いる第3軍は、旅順要塞攻略後、奉天会戦にも参加した。第3軍は、西から大きく回り込んでロシア軍の右側背後を突くことを命じられ、猛進した。ロシア軍の総司令官であるアレクセイ・クロパトキンは、第3軍を日本軍の主力であると判断していた。当初は東端の鴨緑江軍を第3軍と誤解して兵力を振り分けていた。このため、旅順での激闘での消耗が回復していない第3軍も、進軍開始直後には予定通り進撃していた。しかし、西端こそが第3軍であることに気付いたクロパトキンが兵力の移動を行い第3軍迎撃へ投入、激戦となった。, 第3軍の進軍如何によって勝敗が決すると考えられていたので、総参謀長・児玉源太郎は、第3軍参謀長・松永正敏に対し、「乃木に猛進を伝えよ」と述べた。児玉に言われるまでもなく進撃を続けていた乃木は激怒し、自ら所在する第3軍の司令部を最前線にまで突出させたが、幕僚の必死の説得により、司令部は元の位置に戻された[119]。, その後も第3軍はロシア軍からの熾烈な攻撃を受け続けたが、進撃を止めなかった。こうした第3軍の奮戦によって、クロパトキンは第3軍の兵力を実際の2倍以上と誤解し、また、第3軍によって退路を断たれることを憂慮して、日本軍に対して優勢を保っていた東部および中央部のロシア軍を退却させた。これを機に形勢は徐々に日本軍へと傾き、日本軍は奉天会戦に勝利した[120]。, アメリカ人従軍記者スタンレー・ウォシュバン(Stanley Washburn,1878-1950)は、「奉天会戦における日本軍の勝利は、乃木と第3軍によって可能になった」と述べた[121]。, 乃木は、日露戦争の休戦を奉天の北方に位置する法庫門において迎えた。この際、参謀の津野田是重に対し、日露講和の行く末について、戦争が長引くことは日本にとってのみ不利であること、賠償金はとれないであろうこと、および、樺太すべてを割譲させることは困難であることなどを述べている[122]。, 明治38年(1905年)12月29日、乃木は法庫門を出発し、帰国の途についた。明治39年(1906年)1月1日から5日間、旅順に滞在して砲台を巡視した後、大連を出航し、1月10日には宇品に、1月14日に東京・新橋駅に凱旋した[123]。乃木は1月21日付で第3軍司令官を退任し[124]、1月26日付で軍事参議官に親補され[125]、大正元年(1912年)9月13日の死去まで在任した[125]。, 乃木は、日露戦争以前から国民に知られていたが[126]、「いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる」とロシア軍が豪語した[127]旅順要塞を極めて困難ななか半年あまりで攻略したことや、二人の子息を戦争で亡くしたことから、乃木の凱旋は他の諸将とは異なる大歓迎となり、新聞も帰国する乃木の一挙手一投足を報じた[128][129][104]。乃木を歓迎するムードは高まっていたが、対する乃木は、日本へ帰国する直前、旅順攻囲戦において多数の将兵を戦死させた自責の念から、「戦死して骨となって帰国したい」、「日本へ帰りたくない」、「守備隊の司令官になって中国大陸に残りたい」、「蓑でも笠でもかぶって帰りたい」などと述べ、凱旋した後に各方面で催された歓迎会への招待もすべて断った[130][131]。, 東京に到着後、乃木は直ちに宮中に参内し、明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読した。復命書の内容は、第3軍が作戦目的を達成出来たのは天皇の御稜威(みいつ)、上級司令部の作戦指導および友軍の協力によるものとし、また将兵の忠勇義烈を讃え戦没者を悼む内容となっている。自らの作戦指揮については、旅順攻囲戦では半年の月日を要したこと、奉天会戦ではロシア軍の退路遮断の任務を完遂出来なかったこと、またロシア軍騎兵大集団に攻撃されたときはこれを撃砕する好機であったにも関わらず達成できなかったことを挙げて、甚だ遺憾であるとした。乃木は、復命書を読み上げるうち、涙声となった。さらに乃木は、明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した。しかし天皇は、乃木の苦しい心境は理解したが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ、という趣旨のことを述べたとされる[132]。, 乃木が指揮した旅順攻囲戦は、日露戦争における最激戦であったため、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価された[133]。また、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置も賞賛の対象となり、特に水師営の会見におけるステッセリの処遇については、世界的に評価された[134]。乃木に対しては世界各国から書簡が寄せられ、敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載した。また、子供の名前や発足した会の名称に「乃木」の名や乃木が占領した「旅順」(アルツール)の名をもらう例が世界的に頻発した[135]。加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニアおよびイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された[136]。, 明治40年(1907年)1月31日、軍事参議官の乃木は学習院長を兼任することとなったが、この人事には明治天皇が大きく関与した。山縣有朋は、時の参謀総長・児玉源太郎の急逝を受け、乃木を後継の参謀総長とする人事案を天皇に内奏した。しかし、天皇はこの人事案に裁可を与えず、皇孫(後の昭和天皇)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木を学習院長に指名した[137][138]。学習院長は文官職であり、陸軍武官が文官職に就く場合には、陸軍将校分限令により予備役に編入される規定であった[139]。しかし、明治天皇の勅命により、乃木は予備役に編入されなかった[139]。, また天皇は、乃木に対し、自身の子供を亡くした分、生徒らを自分の子供だと思って育てるようにと述べて院長への就任を命じたといわれる[141]。, 乃木は、当時の学習院の雰囲気を一新するため、全寮制を布き、6棟の寄宿舎を建て、学生と寝食を共にして生活の細部にわたって指導に努めた(なお、学習院は1908年(明治41年)に目白(現・東京都豊島区目白)の現在地へ移転した)。その際の乃木の居室であった総寮部は、「乃木館」(国登録有形文化財、乃木没後に移築)として現在も保存されている。, また、乃木は、剣道の教育を最重要視した[142]。時には、日頃の成果を見せよといって、生徒に日本刀を持たせ、生きた豚を斬らせることもあった[143]。当時、学習院中等部に在籍した近衛文麿(後の公爵、内閣総理大臣)は、幼少期には大変な怖がりで一人で出歩くこともままならなかったが、これを見かねた乃木が自ら竹刀を持ち近衛に打ち込んできた。近衛は「乃木さんのメンは本当に痛かった」とのちに回想している[144]。こうした乃木の教育方針は、「乃木式」と呼ばれた[145]。, 乃木は、自宅へは月に1、2回帰宅するが、それ以外の日は学習院中等科および高等科の全生徒と共に寄宿舎に入って寝食を共にした。乃木は、生徒に親しく声をかけ、よく駄洒落を飛ばして生徒を笑わせた[146][147]。学習院の生徒は乃木を「うちのおやじ」と言い合って敬愛した[148]。, 他方で、そうした乃木の教育方針に反発した生徒たちもいた。彼らは同人雑誌『白樺』を軸に「白樺派」を結成し、乃木の教育方針を非文明的であると嘲笑した。これらの動きに対し、乃木は以前から親交のある森鷗外にも助言を求めている[149]。, 1908年(明治41年)4月、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると、乃木は、勤勉と質素を旨としてその教育に努力した。, 当時、裕仁親王は、赤坂の東宮御所から車で目白の学習院まで通っていたが、乃木は徒歩で通学するようにと指導した。裕仁親王もこれに従い、それ以降どんな天候でも歩いて登校するようになったという。後に中曽根康弘が運輸大臣であった時に昭和天皇への内奏で、司馬遼太郎の小説『殉死』に書かれている逸話[注釈 20]は本当かと尋ねたところ、おおむねその通りであると答えられたという[150]。, 明治45年(1912年)7月に明治天皇が崩御してから、乃木が殉死するまで3ヶ月ほどの間、裕仁親王は、乃木を「院長閣下」と呼んだ。これは、明治天皇の遺言によるものである。昭和天皇は後に、自身の人格形成に最も影響があった人物として乃木の名を挙げるほどに親しんだ[151][152]。, 乃木は、大正元年(1912年)9月10日、裕仁親王、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)および光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し、熟読するよう述べた。当時11歳の裕仁親王は、乃木の様子がいつもとは異なることに気付き、「院長(学習院)閣下はどこかへ行かれるのですか」と聞いたという[153]。, 大正元年(1912年)9月13日、明治天皇の大喪の礼が行われた日の午後8時頃、乃木は妻・静子とともに自刃して亡くなった[154]。享年64(満62歳)没。警視庁警察医員として検視にあたった岩田凡平は、遺体の状況などについて詳細な報告書を残しているが、「検案ノ要領」の項目において、乃木と静子が自刃した状況につき、以下のように推測している[155]。, なお、乃木の遺書は、遺書に記載されていない事柄については静子に申しつけておく旨の記載などがあり、乃木自刃後も妻の静子が生存することを前提としていた[160]。, 乃木の訃報が新聞で報道されると、多くの日本国民が悲しみ、号外を手にして道端で涙にむせぶ者もあった。乃木を慕っていた裕仁親王は、乃木が自刃したことを聞くと、涙を浮かべ、「ああ、残念なことである」と述べて大きくため息をついたという[161]。, 乃木の訃報は、日本国内にとどまらず、欧米の新聞においても多数報道された。特に、ニューヨーク・タイムズには、日露戦争の従軍記者リチャード・バリーによる長文の伝記と乃木が詠んだ漢詩が2面にわたって掲載された[162]。, 一方で上記の乃木の教育方針に批判的だった白樺派の志賀直哉や芥川龍之介などの一部の新世代の若者たちは、乃木の死を「前近代的行為」として冷笑的で批判的な態度をとった[163]。これに対し夏目漱石は小説『こゝろ』、森鴎外は小説『興津弥五右衛門の遺書』をそれぞれ書き、白樺派などによってぶつけられるであろう非難や嘲笑を抑えようとした(評価の詳細については後述)。, 乃木夫妻の葬儀は、大喪の礼から5日後の大正元年(1912年)9月18日に行われた。葬儀の当日、乃木夫妻の自宅から青山葬儀場までの沿道は推定20万人とも言われる膨大な数の一般国民で埋め尽くされた。その様子は「権威の命令なくして行われたる国民葬」「人民として空前の盛儀」と表現され、また外国人も多数参列したことから「世界葬」とも表現された[164]。, 日露戦争の時に第3軍に従軍していた記者スタンレー・ウォシュバンは乃木の殉死の報を聞いて、『乃木大将と日本人』(原題『Nogi』)を著し故人を讃えた[165]。, 『中央公論』1912年10月号特集「乃木大将の殉死を評す」に、加藤弘之・新渡戸稲造・東条英教・石川半山らが執筆した。, 乃木の死去を受け、読売新聞のコラム「銀座より」では、乃木神社建立、乃木邸の保存、「新坂」の「乃木坂」への改称などを希望するとの意見が示された。その後、京都府、山口県、栃木県、東京都、北海道など、日本の各地に乃木を祀った乃木神社が建立された[166]。, 日露戦争において「難攻不落」と謳われた旅順要塞を攻略したことから、第一艦隊兼連合艦隊司令長官として日本海海戦などを指揮した東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれた[167]。, しかし、旅順要塞攻略に際して多大な犠牲を生じたことや、明治天皇が崩御した際に殉死したことなどについて、司馬遼太郎等により批判されている。司馬は著書『坂の上の雲』『殉死』において、福岡徹も著書[168]において乃木を「愚将」と評価した。他方で司馬遼太郎らに対する反論[169]や、乃木は名将であったとする主張など、批判と相反して乃木を擁護する意見もある[170][171]。, 乃木を無能・愚将であるとする主張が広まったのは、日本陸軍従軍経験のある作家・司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』および『殉死』によるところが大きい[172][173][169]。, 司馬は『坂の上の雲』および『殉死』において以下のように述べ、旅順における乃木を批判している。, この他、自身が陸軍少尉として日露戦争に従軍した宮脇長吉(後に大佐、衆議院議員)は、「乃木大将はほんとうに戦争がへただった」と語っていたという[注釈 22]。, などが発表された。特に、司馬遼太郎の主張に対する反論として、桑原嶽[注釈 25]『名将 乃木希典(第五版)』(中央乃木会、2005年)および別宮暖朗『旅順攻防戦の真実』(PHP文庫、2006年)があり、以下のように述べて乃木を擁護している。, 別宮暖朗は、乃木率いる第3軍が第1回総攻撃による被害が大きかったことを受けて、第2回総攻撃以降は突撃壕を掘り進めて味方の損害を抑える戦術に転換していることを評価すべきと主張する[194][195][196]。欧州各国陸軍も第1回総攻撃と同様の方法を採っていたのであるから、日露戦争当時にこの戦術を採用した乃木は評価されるべきである、という主張である[197][198]。, また、元防衛大学校教授・桑田悦は、乃木であればこそあの時期に旅順を攻略できたと述べており[199]、大阪青山短期大学准教授・福井雄三も、精神的プレッシャーに強く平常心を失わずに部下を奮い立たせた乃木を評価している[200]。, 乃木が学習院院長に就任した後の明治40年(1907年)頃、「乃木式」という言葉が流行した。没後の大正4年(1915年)には『乃木式』という名称の雑誌も発行され、乃木の人格は尊敬を集めていた[201][202]。当時、乃木は、質素と謹厳の代名詞だった[203]。, 乃木は、生前および死後を通じて詩や講談の題材に取り上げられ、伝記も数多く出版された。それら乃木を題材とした作品群は、「乃木文学」と言われた[204][205]。, なお幾つかの文献では、元帥となった記述があるが、乃木が元帥であった事実はない(乃木に元帥の称号を贈る話はあったが、本人が固辞したため)。, 殉死直後から日本国内の新聞の多くはこれを肯定的に捉え[206]、乃木の行為を好意的に受け止める空気が一般的であった[207]。, 新渡戸稲造は「日本道徳の積極的表現」、三宅雪嶺は「権威ある死」と論じ[207]、徳冨蘆花や京都帝国大学教授・西田幾多郎は、乃木の自刃に感動を覚え、武士道の賛美者でも社会思潮において乃木の賛同者でもないことを明言していた評論家の内田魯庵も、乃木の自刃に直感的な感動を覚えたと述べている[208]。, このような乃木の武士道的精神を評価する見方がある一方で、殉死は封建制の遺習であり、時代遅れの行為であると論ずる見方もあった。東京朝日新聞[209]、信濃毎日新聞[207](主筆は桐生悠々)などが乃木の自刃に対して否定的・批判的な見解を示した。, さらに、時事新報は、学習院院長などの重責を顧みず自刃した乃木の行為は武士道の精神に適うものではなく、感情に偏って国家に尽くすことを軽視したものであると主張し、加えて、もし自殺するのであれば日露戦争の凱旋時にすべきであったとまで述べた[210]。, また、白樺派は、生前の乃木を批判していたが、乃木の自刃についても厳しく批判した。特に武者小路実篤は、乃木の自刃は「人類的」でなく、「西洋人の本来の生命を呼び覚ます可能性」がない行為であり、これを賛美することは「不健全な理性」がなければ不可能であると述べた[211]。, 社会主義者も乃木の自刃を批判した。例えば、荒畑寒村は、乃木を「偏狭な、頑迷な、旧思想で頭の固まった一介の老武弁に過ぎない」と評した上で、乃木の行為を賛美する主張は「癲狂院の患者の囈語」(精神病患者のたわごと)に過ぎないと批判した。, 乃木の殉死を否定的に論じた新聞は、不買運動や脅迫に晒された。例えば、時事新報は、投石や脅迫を受け、読者数が激減した[212]。, 京都帝国大学教授・文学博士である谷本富は、自宅に投石を受け、教授を辞職せざるを得なくなった[213]。谷本は、乃木の「古武士的質素、純直な性格はいかにも立派」[注釈 26]と殉死それ自体は評価していたが、乃木について、「衒気」であるから「余り虫が好かない人」であり、陸軍大将たる器ではない旨述べたことから、否定論者と見なされたのである[注釈 27]。, 乃木の死を題材にした文学作品も多く発表されている。例えば、櫻井忠温の『将軍乃木』『大乃木』、夏目漱石『こころ』、森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』、司馬遼太郎の『殉死』、芥川龍之介の『将軍』、渡辺淳一の『静寂の声』などである。この中で大正時代に刊行された芥川の『将軍』は乃木を皮肉った作品で、大正デモクラシー潮流を推進するものであった[215]。, 旅順攻略戦中は一般国民にまで戦下手と罵られた。もっともこれはウラジオ艦隊捕捉に手こずった上村彦之丞中将と同じく結果が中々出ないのを批難されたものであり、旅順を攻略するとそれは称賛に変わった。さらに水師営の会見をはじめとする、多々の徳行、高潔な振舞いにより、稀代の精神家として徐々に尊敬の対象に変化していった。諸外国には各国観戦武官から乃木の用兵が紹介され、対塹壕陣地への正攻法が後年の第一次世界大戦で大々的に取り入れられるようになる[216]。また失敗した白襷隊の攻撃もドイツで研究され浸透戦術の雛型になった[要出典] 乃木と湯地丈雄は、この明治24年(1891年)に第3師団で行われた元寇に関する湯地丈雄の講演会の後に開かれたパーティーで初めて対面したが[242]、この時乃木は、「外敵は今後も元寇と同様国の西北から来襲するとの確信から」[242]「元寇の講話をして国民の惰眠を醒まそうとする行動の動機」[242]について語った湯地丈雄に対し「君の祖母に当たる位の婦人の教育が然らしめた筈だ」と答えて湯地丈雄を驚かせた[242]。湯地丈雄はまた、乃木の私室に湯地津尾子が私塾の外で論語の素読を書き取っている姿が描かれている掛け軸が掛かっているのを見て、「以来将軍と私は肝胆相照らす」[242]関係を作ることとなった。, 乃木らの肉声が収められたスタンパ(湯地原版)は湯地家の「家宝」[233]となり、長田幹彦の仲介で日本ビクターに有償譲渡された記録がある[243]。 乃木と湯地丈雄の関係は明治24年(1891年)までさかのぼる。湯地丈雄の祖母である湯地津尾子が女手一つで丈雄に教育を施し、その善行貞節ぶりに乃木の母である壽子が私淑して教育方針に取り入れ、その流れで乃木自身も湯地津尾子を尊敬するようになった[242]。 男子功名期克艱 (男子功名克艱(こっかん)を期す) 乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年 12月25日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、陸軍 軍人、教育者。 日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名である。 階級は陸軍大将。 愧我何顔看父老 (愧(は)ず我何の顔(かんばせ)あって父老に看(まみ)えん) 読みについて志甫哲夫は、静子の実家である湯地家は「ゆち」であり、湯地丈雄・敬吾の湯地家は湯地富雄によれば読みは「ゆじ」であり、その理由として「父からの教え」・「細川侯がそう言って父(敬吾)を呼んでいた」・「熊本の知人がそう呼ぶ」ことを挙げていることを根拠としている[251]。, 乃木が殉死した2ヶ月後、主演尾上松之助、監督牧野省三のゴールデンコンビによる『乃木将軍と生涯』が追悼公開された。6年後の1918年(大正7年)から山本嘉一が当たり役として乃木を7本演じた。戦前の作品は岩田祐吉が乃木を演じた『陸軍大行進』(松竹蒲田、1932年)の不完全版のみフィルムセンターにプリントが残っている。戦後は新東宝の「明治天皇もの」三部作と『日本海大海戦』の笠智衆と、乃木は全て脇役での登場であったが、1980年(昭和55年)の『二百三高地』での仲代達矢の熱演によって、ようやく乃木はスクリーンの主役に返り咲いた[282]。 もっとも、この映画での乃木は位置づけとしては群像劇の頂点であるのに対し、20年先立つ『明治大帝と乃木将軍』は、クレジット上の扱いは低い(明治天皇、昭憲皇后をトップとして第二クレジットで4名連記の扱い)ものの事実上全編乃木を主役として描いている。, なお、後に日露戦争で同僚となる将軍たちの初任官の年齢は野津道貫(明治4年)30歳少佐、黒木為禎(明治4年)27歳大尉、奥保鞏(明治4年)25歳大尉心得、児玉源太郎(明治4年)準少尉19歳、川村景明(明治5年)22歳少尉である, 但し先発の二個中隊(第一大隊の第三第四中隊)は19日午後に熊本城に入城し籠城戦に加わっている。, この三好の決断については後世批判もあるが、自身も陸軍士官学校52期卒でビルマなどで戦い、戦後は自衛隊に入り陸将補として退官した桑原嶽は当時の両軍の戦力から考えて三好の懸念も妥当であり、乃木の進言を受け入れていれば, なお軍旗を神聖視するようになったのは西南戦争から日露戦争を経て多くの激戦を経験してからであり、創設まもない当時はまだ軍旗を神聖視する風潮はなかった, なお歩兵第十四連隊には翌明治11年1月21日に連隊旗が再授与されている。奪われた軍旗も再授与後に発見され陸軍省が回収保管している。, 中西は、死地を求める乃木の行動を耳にした明治天皇が、乃木を前線指揮官の職から外すよう指示したとしている, 但し桑原嶽は著書で連隊規模の部隊が平時で演習する場合、最も重視する演習科目は火力で制圧しつつ敵陣地に近迫する「攻撃前進」であり、それは昭和期の日本陸軍では歩戦砲飛の協同と呼び、現在の米軍では「火力支援調整(Fire Support Coordination)」と呼んでいて重要視している。その火力は他部隊の砲兵火力(現在ではこれに戦車や航空戦力等も加わる)との連携であるので、奇襲でなくなるのは当然であり、とどのつまり「正面攻撃」になるのは当然であるとしている。, この中将昇進は少将に昇進した明治17年から11年以上も経過し旅団長を4回もしていることから、乃木の軍事的無能から進級が遅れたという論調があるが、桑原嶽によると少将昇進までハイスピードで進級した乃木が中将進級を足踏みさせられた可能性があり、当時の日本陸軍の規模から考えて中将が任じられる役職は多くなく、進級に11年を要した事が、乃木の能力が原因であるという論調は的を得たものではないと述べている。なお、乃木と一緒に少将となった9名のうち、乃木よりも先に中将に昇進したのは6名(川上操六、桂太郎、黒木為禎、奥保鞏など)だが、どれも乃木より年長者の上陸軍在籍年数も長い先輩であり、乃木よりも昇進が速いのは当然である。また乃木より遅れて少将に昇進した者(児玉源太郎など)で乃木を追い越して中将に昇進した人物は一人もいない, 敵陣地に対する「正攻法」とは、既に占領した地点から敵陣地の前面ぎりぎりまで塹壕を掘り進んで進撃路を確保し、歩兵の進撃の際には十分に支援砲撃を行う攻撃方法を指す。, S・ウォシュバンは当時はシカゴニュース紙の記者で従軍記者として乃木第3軍に付き添っていた, 中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、165頁, デイリー東北新聞社 新井田川漫歩 第6部 雪谷川水系・軽米 乃木将軍の愛馬 日清、日露両戦争に同行, http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0082/BO00820L019.pdf, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=乃木希典&oldid=80270392, 乃木は、1912年(大正元年)9月13日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町(現・東京都港区赤坂八丁目)の自邸居室において、明治天皇の, 将軍(乃木)はあらかじめ自刃を覚悟し、12日の夜に『遺言条々』を、13日に他の遺書や, 乃木は、いくつかの遺書を残した。そのうちでも『遺言条々』と題する遺書において、乃木の自刃は西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死である旨を述べ、その他乃木の遺産の取扱に関しても述べていた, ヴォーバンの戦術論(近代要塞に対する攻撃方法)に関する書物を読了することは軍人の当然の義務であった。しかし乃木は、近代要塞に関する専門知識を有しなかった, 乃木は司令部を過剰に後方へ設置したので、前線の惨状を感覚として知ることができず、児玉源太郎からも非難された, 第1回総攻撃は、あえて強靱な盤竜山および東鶏冠山の中央突破という机上の空論を実行に移したものであった, 早期に203高地を攻め、そこからロシア海軍の旅順艦隊を砲撃しさえすれば、要塞全体を陥落させずとも旅順攻囲戦の作戦目的を達成することができ、兵力の損耗も少なくてすんだはずである。しかし、乃木は、203高地の攻略を頑なに拒み, 旅順要塞は無視してしまうのが正解であり、ロシア軍が旅順要塞から出撃してきた場合に備えて抑えの兵を残しておけば十分であった, 乃木は、児玉源太郎に指揮権を委譲し、ようやく、203高地を陥落させることができた。児玉が指揮を執らなかったなら、損害は拡大していた, 日露戦争当時、塹壕を突破して要塞を陥落させる方法は、ある程度の犠牲を計算に入れた歩兵による突撃以外に方法がなく、有効な戦術が考案されたのは第一次世界大戦中期であるから、後世の観点から乃木を批判すべきではない, 乃木率いる第3軍の司令部があまりに後方に設置されていたのと批判は当たらない。戦闘指令所が置かれた団山子東北方高地は、前線(東鶏冠山)まで直線距離にして3kmであり、戦況を手に取るように見える距離である。よって、攻撃中止の判断も迅速に行うことができた, 第3軍に大本営より手渡されていた旅順の地図には旅順要塞の堡塁配置などに誤りがあり(例えば203高地などの前進陣地が書かれていない。東北方面の東鶏冠山などの堡塁が臨時築城の野戦陣地となっているなど)日本軍全体で要塞の規模を把握していなかった。敵陣地の規模が不明な以上、攻略地点を自軍に有利な東北方面にする(鉄道や道路があり部隊展開に有利。西北方面はそれがなく準備に時間を要しないと不利)のは当たり前の決断と言える, 旅順要塞に対して残置すべき兵力は4万ほどになると思われるから、たとえ第3軍が北上しても奉天会戦において活躍することはできなかった, 児玉源太郎が第3軍に与えた指示は予備の重砲の配置変換であり、同士討ち覚悟の連続射撃も攻城砲兵司令部の判断で実施されている, 時間があれば戦死者の遺族を訪問し、「乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい」と述べていた, 乃木が歩兵第11旅団長の旅団長として熊本に赴任していた際に生まれた子だったが、生後間もなく夭折し, 1942年 シンガポール陥落「乃木大将(2銭)寄付金1銭」 - 上記に「シンガポール陥落」スタンプと寄付金「+1」を追加したもの, スタンレー・ウォシュバン 『乃木大将と日本人』 目黒真澄訳、講談社学術文庫(新版), 木立順一『偉人伝:児玉源太郎(前篇)現代人が今一番目指すべき姿』メディアポート 2014年4月, 廣木寧『天下なんぞ狂える―夏目漱石の『こころ』をめぐって』(上)(慧文社)2016年, 廣木寧『天下なんぞ狂える―夏目漱石の『こころ』をめぐって』(下)(慧文社)2016年.

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