名鉄 列車 種別 12

新型コロナウイルス関連の投稿は当分の間厳禁といたします。詳しくはこちらをご覧ください。, https://wiki.chakuriki.net/index.php?title=名鉄特急&oldid=1613962, パノラマスーパーの展望席の座席は一番後以外背もたれが低い。でも前の座席との幅が広いので、あまり気にはならない。, この列車のみ「特急料金」で、他は「座席指定料金」(→特別車両料金)。唯一、名鉄で特急料金が適用される列車だった。今は, ミューチケット(1999年改正までは座席指定券)不要の車両が「一般車」(同年改正まで「一般席車」)と呼ばれているのはこのあたりの事情がからんでいる。, そのため運賃+たった350円で超快適な移動ができるので特急券(ミューチケット)はお勧めである, Idayチケットでは10時から16時まで特別車に乗れる。だから金山から名古屋まで特別車に乗った。ぜいたくですね(私が), 僕は名鉄特急を使いようがあれば、小遣いから350円だしても特別車に乗るよ。快適に移動できるから, 午前中に豊橋から神宮前まで展望席を利用したらガラガラ・・・だったのが、東岡崎で中高年がわんさか乗ってきた。, 乗務員が勝手に「誰もいないな」と思ってると遠くから確認しただけで、展望席まで来ない。, 平日の朝の名古屋方面行きと夕方以降の名古屋発の特急の特別車はソコソコ乗ってますよ。1乗車につき350円(喫茶店のコーヒー1杯分)という「気軽にデラックスなシートに、しかも確実に座れる」価格設定がミソなのでしょうか。, それは逆の話。国鉄時代に『ホームライナー』の『値付け』をする際に、名鉄の座席指定料金(当時250円)を参考にした。, JR東海も名鉄を真似たのかホームライナーやセントラルライナーを設定したが、「全車」は不評だったようで2013年改正で大削減。, この前JRが振り替え輸送していたときなんと全席満席という放送が名古屋駅に流れていた。, ミュースカイは名古屋駅以北では通勤列車の性格がけっこう強い。だもんで岐阜方面は2011年3月改正で朝夕のみ運転に……(日中は名鉄名古屋折返し), 国鉄の時代は、座席指定料金を入れても名鉄のほうが安くなるんで、座席が満席でも定期券で飛び乗り乗車する人が多かったとか。, 国鉄末期だと、快速の増発とかがされたので、今度は名岐間では名鉄の定期を持ってても座れる国鉄快速に乗る人がでたという(指定席料金310円は、一宮・名古屋間の国鉄普通運賃より高かったため)。, 犬山線や河和線の特急に一般車がついたのはつい最近なので、それまではラッシュ時だと満席でも指定席車→特別車に飛び乗って350円払う人は多かったとか。, しかしクルマ社会化、景気後退、レジャー衰退、そしてJRの躍進もあって日中はガラガラの列車が平成になると普通になった。ミュースカイ以外の全特急の一部特別車ないし全車一般車化はこれが最大要因だろう。, 犬山線や河和線は特別車利用を強いられていた路線なので、一特化したことで特別車の利用率がさらに低下した。, 特に河和線は「早い列車の席がそれ(特別車)しかないなら追加料金が発生しようと構わず乗る」という半島民の気風で成り立っていた面があるので、一般車が選択肢として登場したことでその図式は崩壊し、ついに全車一般車化までしてしまった。, 津島線や西尾線は更にひどく、特急自体がほとんど運行されなくなった(西尾線は1時間間隔だったのが早朝深夜の計1往復のみに)。ラッシュ時の補完列車みたいになった。, 以前東京の友人に「同じ列車なのに普通運賃だけの車両と特別料金が要る車両があるのが変」と言われたので「JR東日本の, 関東の人に説明するならその例えが一番分かりやすいと思う。ただし私鉄や地下鉄しか使わない人には通じにくいかも。, 1000系なら一般車でも充分だが、2200系の一般車は「走るんです」に似たような内装でロングシート部分も多いので(JR東日本のE129系に似たような座席配置)、2200系の場合は特別車に乗る価値はあると思う。, 最近(2018年)は景気が良くなってきたのか平日朝と夜、休日の夕方の時間帯において、豊橋、犬山、内海河和空港方面の特急が満席になることが増えた。特に名古屋本線東の休日において、数年前は1人2人しか乗っていなかったのに最近は乗車率5、6割はあると思う。, 特急に乗って支線の終着駅まで行ったら、折り返しで「普通」になりやがった。特急料金を騙し取られたような気分だ。, 座席指定料金ではなく特別車両券なのでその車両を使う権利を買っているのでお気をつけを。座席指定料金だと立っている人はお金払わなくていい事になっちゃうからね。, 1000系・8800系と7000系で同じ料金であることには、疑問を感じたこともあった。, けど、結局特別車は締切扱いするからそこを理解し、「ただの6000系や3500系と同じ普通列車」と思えばそうもならない。, 空港開業時に一部特別車急行(1600系+貫通型3100系)を作ろうとしたが中部運輸局に止められた。なので名鉄の場合は豊川快特のように実質急行である区間でも特急以上を名乗ることで疑似的な特別車急行運用を行っている。, 通勤利用でパノラマDXに乗ると、他人同士でセミコンパートメント席に座らせられたりしたから。改造を重ねたせいで、窓の無い座席もあったし。, 1600系でやったように8800系2両と1200系4両のパノラマsuper作ってほしかったな。もちろん足回りは新しくして120km/h運転できるようにして。, 1994年から4年間、1000系を青塗りにした「ブルーライナー」というものが走っていたけど、それのことかな?, 2008年の夏に「三河湾」「日本ライン」の愛称付き特急がパノラマカーで復活運転された。, 電車でGO!だとパノラマスーパーで女性車掌のアナウンスが聞こえるが、実際に乗ってみたところ、乗った全列車が男性車掌だった。, この方式は「快適じゃなくていいから安く&早く移動したい」という人に便利。他社でもやって欲しいが、やっているのは, ただしサザンは一般車がボロいロングシート通勤車。名鉄は一般車でもクロスシートがある。, 2200系・2300系の自由席車は扉間毎にロングと転換クロスが交互に並ぶ。転換クロスは空港利用客の荷物置場とラッシュ時の立席スペースを兼ねる空間を用意するため一部を除いて2+1列配置とされているので、座席定員はロングの方がやや多い。, 座席指定料金→特別車両料金を採用しているゆえ、自由席→一般車では「料金を取らない」と解釈出来るからこそ可能な制度と言える。両社とも, ミュースカイ以外の特急に全て一般車を連結する計画だが、それが実行されると 3両編成の1600系は1両必ず余る事になる。4つ余るらしいが、それを適当な地方の路線に売り飛ばせばいいと思うんだが。, そもそも今廃車が始まったパノラマスーパーを、秩父鉄道か富士急行にでも売ればいいと思うのだが・・・, 正直、新製して10年経たない1600系の廃車はもったいない。どこか売り飛ばせばいいのに。, 1600系は将来の空港特急使用を視野に入れてたのに、ミュースカイが入ってきたから・・・, パノラマSuperを名乗っていたが1600系は1000系より2000系の方が類似点が多い。試作車1600系に対する完成型2000系みたいな位置づけ。, 初めて名古屋に行ってこの車両を見た時、最初はこれが元パノラマSuperとは気付けなかった。, 廃車になった1両×4本から部品は再利用している物もあるし、2200系と断面は一緒なので見た目は特に問題ないが、あの塗装は最初無いと思った。, ちなみに廃車された車両のミュージックホーンは名鉄の電気機関車EL120に付けられました。, 特別車に乗った時、乗ったすぐ後にトイレに行ったら、車掌がデッキに立っていて、席に着くと真っ先に私のところにきた。, ていうか、発車すると車掌がすぐ特別車に来て乗客のミューチケットを見ていく。熱心と言うべきか何と言うべきか。, 先日、初めて名鉄特急を使った関東人です。何というか、JR東日本の普通グリーン車のシステムが馬鹿らしくなりました。, 確かにそうだよな・・・ミューチケットはグリーン車の最低運賃より安いし、速いし、車掌の態度はいいし・・・(by東日本の東海道線沿線住民), この前初めて乗った関東人ですが、車掌の態度はそんなに良くはなかったような・・・たまたまかなあ・・・, ぶっちゃけ、名鉄特急と比較したらほとんどの有料列車が馬鹿らしくなるような…(新幹線とかは別として)。, それにJR東のグリーン車は事前にグリーン券を買わずに乗ったら割増料金とられるし。東海や関西では考えられないな。, パノラマカーは引退、パノラマスーパーも一般車併結編成のみになる。ミュースカイは分割併合の関係で仕方ないとしても、2200の特別車側はパノラマにして欲しかった。, ダイヤが遅れると、全車一般車扱い、つまりミューチケットなしで特別車に乗れることがある。全車一般車のミュースカイとかも…, 雪で運用する予定だった列車が届かなかった時なんかはミュースカイが各務ヶ原線の普通運用をしたよ。, 1998年ぐらい前まで特別車は指定席車、一般車は自由席車と呼んでいた。電車でGO!でも特急で指定席車というアナウンスがある。, 立ち客から座ってもいないのに指定席料金を取るのはおかしいのではないかと指摘されたため、特別車両料金と名目を変えた模様。JRの快速では指定席券の名目で未だにとるが。, 2008年12月改正から新木曽川・笠松・柏森・阿久比・青山にも停車する。ますます停車駅が増える一方。, 東海とスピードで真っ向勝負するのは諦めて、途中駅利用者確保型の戦略に切り替える、ということだろう。まだまだ安泰ではない模様。, とは言うものの、所要時間でJRの普通以下となった名岐間はともかく、名豊間はまだスピード競争を諦めてはいない。, 名鉄は愛電時代初期に開通した神宮前~前後もカーブが多く速度が出せない。しかしJRも武豊線が先に開通した経緯からか大府経由でやや遠回りなので名古屋・岡崎でも似たようなことに。, JR海における名鉄特別車特急的位置づけだった「ホームライナー」も2013年に大削減。名豊間では消滅。, 夜の上りホームライナー静岡は終点静岡で浜松通過の東京ゆきひかりに接続していたりと意外と使い道がある。ガラガラだけど。, 8800系をDX特急と位置づけ、500円にしていた。年初には7000系と組んで料金別待遇の豊川特急を走らせたりしていた。, しかし、それとは逆に金山駅ではそこそこの頻度で鳴らすようになった。ミュースカイは太田川でもよく鳴らしてます。, 急行に変わる特急は現在無い。津島線直通の急行準急がそれぞれ一つずつ種別を下げるのが今のテンプレ。, 特別車側の先頭にも種別と行き先表示を付けたいのは分かるが、運転室の運転台と逆側上部辺りに付けられなかったのだろうか。, 少なくとも一般車側はヘッドマークを残したほうがよかったと思う。ライトの間部分だけ白い塗装だと何とも違和感がある。, パノラマsuperの愛称は残っているもののリニューアルを機に前面に押し出さなくなった模様。かわりに書いてあるのは側面の「Series1200」。, 一時期の名鉄は特急ばかり走らせて通過駅はほとんど停まらないというダイヤを推進していた。, 青いラインの全席指定バージョンと赤いラインの一部自由席バージョンがあるが、赤いラインは神宮前出発後の停車駅が多すぎ。, パクったのかどうか分からないが似てしまったと言う方がいいんじゃない?カッコいいからそれでよしってことで。, 赤いのは空港特急と普通の特急を兼ねているんだと思う。夕方に名古屋始発特急中部国際空港行きに乗ったら、ほとんど通勤客で常滑までの間に次々と降りて、空港に着いたときは私の乗った車両には私しかいなかった。, 赤いのは太田川を出たあと、次の尾張横須賀、一駅飛ばして朝倉と停まるので、もうこの二駅は特急通過にしてほしい。, そもそも中部国際空港~神宮前間全部通過のミュースカイに地元民がどうやって乗れと?空港に行って乗れって?馬鹿言うなって。惜しむのは350円どころじゃなくなるぜ。でも路線検索したらそういう馬鹿みたいなルートを提案されることがあるなぁ。, 急行は急行で太田川を出ると4駅連続停車・・・。常滑に用がある場合ミュースカイは無理。, その2駅は新舞子より乗客人数が多いから通過の可能性は低い。新舞子含めて3駅は空港線開業後乗客が増加傾向だし。逆に急行しか停車しない寺本、古見などは乗客が減少傾向。, 空港開業前までは、全車特別車しかなかった上、昼間は特急なし、夕方は尾張横須賀、朝倉、新舞子、大野町停車(つまり急行の補完)の時代に比べたら、常滑へのアクセスはだいぶ良くなったと思うんですが・・・。, 尾張横須賀、新舞子は飛ばしても、朝倉は絶対停車すべき。なぜなら東海市は太田川で、朝倉、新舞子通過すると知多市は素通り。一市1駅止まれば十分。常滑も人口少ないし止まらなくてもいい。, その3駅を通過にしたところで、名古屋~空港間30分は無理。その時間で運転するなら、神宮前~空港間の途中駅をすべて通過する必要がある(かつての「快速特急」に振り子非搭載の特急車が臨時に充当されたときは名古屋~空港間30分だった)。, 列車本数が少ないのが最大の原因。普通2本、急行2本、特急2本なので格下げすると毎時4本になってしまう上に、半分は太田川止まり。とほほ。, 退避場所も少ないし(太田川から南は西ノ口、常滑のみ退避可能。両駅とも退避設備は2005年から使用開始)。, 赤いのはたまにたまに豊橋〜岐阜の特急でも来る。そしてロングシートの通勤車が連結されている。, たまにじゃない、ふつーにある。もともと2200系は空港用じゃなくてパノラマスーパーの置き換えで作られたから。, 2200系(赤いの)通勤車はロングシートと転換クロスシートがちょうど半分ずつ配置されているが、後期型は転換クロスシートが2+1列仕様となり座席が少なくなってしまったのが不満。, あれは妥協の産物。ゆったり座りたいクロス派とラッシュ時の窮屈さを何とかしてほしいロング派の意見から名鉄が悩んだ末に行きついた結果。, 空港行きは常滑を過ぎると音楽が流れ出す。到着までずっと流れる。旅の終わりを感じさせる。, まあ、まさに「旅の終わりは、新たな旅の始まり」なんだが。(空港行ったらその先もあるでしょ), 空港駅に着いてもBGMは流れつづける。名古屋方面に折り返す列車になってドアが閉まるとやっと音楽は止まる。, ところで、1000、1200、1600系列はパノラマスーパー、2000系はミュースカイの愛称があるけど2200系は何て呼べばいいんだ?(空港以外の運用もあるからミュースカイと呼ぶには抵抗が…), 私は勝手に「アルファスカイ」と呼んでいた。ミューに対抗してアルファかと・・・。2007年夏にポケモンのラッピングがされたのは「ラブピカ号」だった。, 2007年夏にポケモンスタンプラリーが開催された際に、ミュースカイと赤いのがラッピングされて走った。ポケモン好きにはたまらなかった。, ポケモンミュースカイは2008年も夏休みまで走ることになった。通勤車のダイヤモンド・パール号はもう運転中。, ついでに2200系のギラティナ・シェイミ号も走ることになった。これでポケモン電車は去年と同じく3本体制に。, ミュースカイではなく2200だが、何故か京都鉄博のジオラマにあったりする。このチョイスが本気で謎。関西民には馴染み薄い車両だろうし…。, 空港到着直前に、車掌が「この後飛行機へ搭乗されるお客様は、素敵な空の旅をお楽しみ下さい。」みたいな内容の放送を入れる。親切だなと思ったけど, そしてとうとう2011年3月26日をもって完全消滅。三河地域をなんだと思ってる。(豊川市在住), 空港直通だった頃は名古屋方面の客が乗り換えをする羽目になっていて、不満が多かったらしい。開業熱も冷めてみると結局「名古屋>空港」だったということか。, 豊橋に至っては空港バスも廃止に追い込まれており、そもそも空港への需要自体が多くないことが判明。浜松は残っているのに。, 夜の空港発着の特急は名古屋始発・名古屋止まりになってしまい、岐阜方面へは行かない。, 夏休みの終わり頃、空港夜21時過ぎの名古屋行き特急の特別車が満席だった。特別車が満席になったのを始めて見たのでびっくりした。, しかしその後出る岐阜行きの最終ミュースカイは後ろの1号車・2号車ほぼ満席、前の3~8号車ガラガラだった。何があったのだろうか?, NEXで同じ事を見たことある。とにかく先に出る列車や、同じ列車でも端から詰めてしまうと言う考え方かと。「空席があるのに積み残し」は許されないとか。, 多分、改札に近い車両から埋まって行くようになってると思う。櫛形ホームだから、1号車が改札口に一番近い。, 11:37の新鵜沼行きで、ミューチケットが実質完売。座るには相席しか方法はない。(1デー泣かせ), 名古屋に到着する時の放送の乗り換え案内は、他の路線を差し置いて最初に「福井・金沢・松本方面の高速バスと…」とアナウンスされ、岩倉・犬山or国府宮・一宮方面の乗り換え案内はしない。, そもそも、名古屋は特別車・降車ホームと一般車乗車ホームが分離されているため、特別車から一般車への乗り換えには適さない(ただでさえ混雑した構内で上り下りさせられる)。降車したホームで乗り換えができるのは神宮前か金山。, 2008年12月のダイヤ改正からミュースカイ使用の列車の種別名が「ミュースカイ」となり特急・快速特急から独立することになった。, 名駅まで来ない上、神宮前で先行のミュースカイに接続するという有様だった豊橋からの空港特急は、ついに消える模様。, 代わって豊橋方面から新鵜沼への一部特別車特急が生まれる。空港方面から岐阜へ向かう特急とこれで対にするらしい。, 夜間の中部国際空港行きミュースカイは、神宮前から先でたまに誰も乗っていないことがある。, 上りの空気輸送を解消するために太田川停車をお勧めしたい。せっかちが多い半島東部・南部民は乗る筈。, 常滑線において上りは名古屋方面、下りは常滑・空港方面。上りミュースカイは朝に特急停車駅に止まるものがあります。, 実は名古屋からセントレアまではかつてJRもバスを運転していたのだがミュースカイが瞬殺した。. 12月 8日: 特急座席指定券専用端末機更新。 平成 2年 3月10日 「北アルプス号」新名古屋~高山間に短縮。 10月29日: 列車種別変更、特急と高速を 「特急」 に一本化。名古屋本線特急を 全車座席指定車 、 一部座席指定車 、 全車一般車 の3種とした。 名鉄名古屋本線の名鉄名古屋駅(名鉄岐阜方面)の時刻表。方面、平日/土曜/休日の切り替え、日付の指定、列車種別・行き先での絞込みなど、便利な機能も。 2008年12月27日のダイヤ改正より7種類の列車種別が存在している。名鉄では列車種別の他に「一般車」と「特別車」の概念があり、このうち特急以上の列車に存在する「特別車」の乗車には乗車券のほかミューチケットが必要である。 [1])は、愛知県・岐阜県を基盤とする大手の鉄道会社である。通称、名鉄(めいてつ、Meitetsu)。民営鉄道としては日本で3番目の歴史を持つ老舗企業である。本社は愛知県名古屋市中村区名駅1丁目2番4号、近鉄名古屋駅に隣接する名鉄名古屋駅上に設けた名鉄バスターミナルビル(名鉄百貨店本店メンズ館ビル)内に置いている。中京圏では最大の444.2km[3]の路線規模を擁する。, 本業の鉄道業では、愛知・岐阜両県に総営業距離では近鉄・東武に次いで日本の私鉄第3位(JRを除く)の444.2kmにもおよぶ路線網、275駅を擁する[4][3](詳細は「路線」節を参照)。年間利用人員は、およそ3億9,323万人[3]、旅客車両数は1,064両(2019年3月31日時点)[3] である。, 名古屋鉄道は東海銀行(現:三菱UFJ銀行)・中部電力・東邦瓦斯(東邦ガス)・松坂屋(現:大丸松坂屋百貨店)と共に名古屋経済界の中核名門企業、旧「名古屋五摂家」の1社に数えられる[6]。中部地方を中心に数多くの不動産を所有する企業であり、これらの「開発事業」も経営の重要な柱となっている。レジャー・流通産業など関連事業を中心に多角的な企業展開を行っており、連結決算の対象・非対象併せて200社以上のグループ企業がある。, 2005年(平成17年)に開港した中部国際空港に空港連絡鉄道として乗り入れる唯一の鉄道会社である。, 現在のシンボルマークは会社創立100周年に先立つ1992年(平成4年)4月より使用を開始している。これはCI導入計画の一環としてランドーアソシエイツによるデザイン開発により策定されたもので、同時にコーポレートカラーも制定されている[7]。, シンボルマークは社名略称の英称「MEITETSU」をモチーフとし、特にM字型のマークはMEITETSU ウイングと呼ばれる。2色のコーポレートカラー(人や地球への優しさを表す「MEITETSU Blue」、知的さ、信頼性を表す「MEITETSU Green」)によって構成されるMEITETSU ウイングは名鉄が地域とともに躍進する姿を表現している[8]。このほか、シンボルマークに準ずるものとしてMEITETSU Blue、MEITETSU Greenに赤を加えたアロー(スピードアロー)があり、マークパターンとしてシンボルマークの下にアローを配するタイプとMEITETSU ウイングの下にMEITETSU、アローを配するタイプが設定されている[7]。, 社章は中央に図案化した「名」を、鉄道の象徴である「工」を5つ円形に配置したものである。5つの「工」は五徳による社員の総親和を表すとともに、名古屋から放射状にのびる路線網も表現している[9]。CI導入以降は掲示物等への使用が全面的にシンボルマークへ切り替えられており[7]、100系の前面飾り帯の装飾など現存箇所は少数に留まっている。, 現在の名古屋鉄道は、太平洋戦争の終結以前に中京圏の多くの鉄道会社が合併して成立したものであるが、その起源は1894年(明治27年)6月に名古屋市内で馬車鉄道を運行する名目で設立された企業の愛知馬車鉄道である。, 愛知馬車鉄道は当初、馬車鉄道を敷設するための特許を得ていたが、計画を電気鉄道に変更し、1896年(明治29年)に名古屋電気鉄道に社名を改めた。1898年(明治31年)には、京都電気鉄道(後に市営化され京都市電となる)に次ぐ日本で2番目の電車運行を開始。以後、同社は市内各所へ網の目のように路線網を構築していった。1912年(大正元年)には初の郊外路線(郡部線)を開業させ、以降は尾張北中部の各市町と名古屋市を結ぶ郊外路線を充実させていった。, 1921年(大正10年)、市内線の市営化が決定する。その前段階として名古屋電気鉄道は6月に郊外線部門を引き継ぐ(旧)名古屋鉄道を新たに設立し、第二の創業とした。翌1922年(大正11年)8月には名古屋市電気局(後の名古屋市交通局)へ市内線部門を乗務員ごと譲渡して名古屋市電が発足し、(旧)名古屋鉄道の発足後も市内線の営業を続けていた名古屋電気鉄道は解散した。なお、市営化後も柳橋 - 押切町間の郊外線から市内線への乗り入れ(営業権)は、譲渡条件として保持されたまま(当該区間は市営・名鉄の二重免許区間)であった。, その後(旧)名古屋鉄道は、名古屋電気鉄道当時はおまけのような存在であった郊外線部門を生かす形で名古屋市と岐阜市という2つの大都市を直結する都市間路線を形成することを目論み、1928年(昭和3年)4月10日にはその第一歩として名岐線の丸ノ内 - 西清洲(現・新清洲)間を開通させたことにより、押切町 - 新一宮(現・名鉄一宮)間が開通した。, 1930年(昭和5年)8月、岐阜市周辺の路面電車などを経営していた美濃電気軌道を合併した(旧)名古屋鉄道は、名岐間輸送を社の重点目標としたことから、合併翌月に社名を名岐鉄道と改称した。この時点で開通していたのは押切町 - 新一宮間および笠松(現・西笠松) - 新岐阜(現・名鉄岐阜)間であったが、木曽川橋梁の完成に伴い1935年(昭和10年)4月29日に新一宮 - 笠松間が開通し、押切町 - 新岐阜間が全通している。, 1909年(明治42年)には、名古屋以西の路線(名古屋本線の東枇杷島駅以西・犬山線など)を建設していた名古屋電気鉄道に対し、以東の路線(名古屋本線の神宮前駅以東・常滑線など)を建設することになる愛知電気鉄道が設立された。, 愛知電気鉄道(愛電)は、1910年(明治43年)に知多半島西岸の振興と、それまで舟運に頼っていた常滑焼など特産品の効率的な運送を図るために設立された鉄道会社で、1913年(大正2年)に現在の常滑線を全通させ、続いて旧東海道沿いに名古屋市と三河地方との連絡を意図した路線(豊橋線、現在の名古屋本線神宮前駅以東に相当)の建設を開始した。一方、官設鉄道(後の国鉄・現JR)東海道本線以外に、私鉄による第2幹線を建設しようと東海道電気鉄道が設立され、愛知郡御器所村(現名古屋市昭和区)から豊橋市に至るまでの路線免許を得て、さらに豊橋市から浜名湖北岸をまわり浜松市に至る計画を持っていた遠三電気鉄道にも出資していたが、その最大の資本提供者で過去に日本電気鉄道(東京 - 大阪間電気鉄道敷設計画)の計画も推し進めていた安田善次郎が1921年(大正10年)に暗殺されたため、計画は宙に浮くことになった。, そのような状況下、東海道電気鉄道の創設者であり、かつて愛知電気鉄道の2代目社長を務めた福澤桃介(福澤諭吉の娘婿)は、愛知電気鉄道に対して救済合併を申し入れ、愛知電気鉄道側もこれを承諾し、東海道電気鉄道は愛電に吸収合併された。その後、愛知電気鉄道は東海道電気鉄道計画を継承し、当時有松裏駅(現・有松駅)まで開通していた愛電有松線を延伸する形で、豊橋方面への路線の建設に着工した。東海道電気鉄道は当初から画期的な高速鉄道を目指しており、豊橋線はそれに見合う高規格で建設され、1927年(昭和2年)6月に吉田(現・豊橋)までの全線が開通した。この豊橋線は当時の愛知電気鉄道の資本金総額を上回る莫大な建設費用を投じて建設されたことから、この設備投資による負債が経営を圧迫し、さらに当時の日本はアメリカに端を発した世界恐慌による強烈な不況風が全国に吹き荒れていたこともあって、愛知電気鉄道は深刻な経営難に陥った。その後、景気回復と3代目社長である藍川清成以下経営陣の尽力によって、愛知電気鉄道は経営危機を脱している。, 現在の名鉄は、1935年(昭和10年)に、名岐鉄道(名岐)と愛知電気鉄道(愛電)が合併して発足したものである。, 合併前の名岐・愛電の両社は、名岐が名古屋式経営と称される多くの内部留保を抱える無借金経営を行っていた一方、愛電は積極的な設備投資に起因する負債(当時の金額で226万円)を抱えていた。もっとも、経営規模・払込資本金額・経常利益・株式配当といった経営規模・財務内容はほぼ同等であった。, それまでの両社は、三重県方面への進出(伊勢電気鉄道の買収工作)や名古屋地下鉄道の運営方法など、当地域の鉄道運営の主導権を巡って対立することも多かったが、当時の日本は世界恐慌を境として、大陸(現在の中国など)への進出・利権を廻って欧米列強との対決(戦時)色が強くなり始めた頃であり、民間企業の間では国内(同一民族間)での競争・対立を止めて協調・合同(民族団結)へ向かう機運が次第に高まった時代であった。合併話が持ち上がった時点では、陸上交通事業調整法や戦時立法の国家総動員法も構想段階であったが、当地の交通事業を再編・統合して安定した鉄道輸送を図るべく、名古屋財界の有力者を中心に民間主導の型で検討・折衝が進められることとなった。, 当初は両社とも合併には消極的で、特に名岐側は企業体質が全く異なる愛電との合併に対して強い拒否反応を示したとされる。その後も名岐は「自社が愛電を合併する」という形態に拘り、最終的に名岐鉄道を存続会社として愛知電気鉄道は解散し、合併後の新会社の社長には当時の名岐社長であった跡田直一が就任し、愛電社長の藍川は副社長となることが内定した。合併比率は名岐1対愛電1の対等合併とされた。, 合併期日は1935年(昭和10年)8月1日と決定したが、新会社の社長就任が内定していた跡田が同年7月17日に死去したため、急遽藍川が繰上がる形で現・名古屋鉄道の初代社長に就任した。このことを指して、旧名岐の社員からは「愛電による名岐乗っ取り」との声も聞かれたという。旧名岐の社員であった土川元夫(後に名鉄社長・会長を歴任)は自身の自叙伝において、合併契約により取締役に次ぐ上級部長職である理事職(現在の執行役に近い職位)の割り当てを受けていたが、合併後に「お前はまだ若いから」との藍川の一言で降格され、他の旧名岐社員も同様に左遷されたことを振り返っている。, 両社の合併によって現・名鉄という中核企業が発足した愛知・岐阜両県では、陸上交通事業調整法施行後も法律(強制統合)の直接的な対象とはならず、名鉄を中心とした鉄道事業者統合は、戦時体制への移行という時流の要請に沿って、その多くが事業者間の合意によって自発的に行われた。これは周辺の鉄道事業者の多くが名鉄と資本的な繋がりを有する、または名鉄の子会社であったことが最たる要因として挙げられる。もっとも、名鉄と資本的繋がりを持たない独立系事業者であった瀬戸電気鉄道および三河鉄道の合併に際しては交渉が難航し、後者については鉄道省による仲介の末、ようやく合併に漕ぎ着けている。, 合併後の名鉄は最初の課題として、旧名岐鉄道路線(西部線)と旧愛知電気鉄道路線(東部線)の連絡線建設を進め、当時の省線(現JR)名古屋駅の移転跡地を譲受し、そこに新ターミナルとして地下駅の新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)を建設・開業し、新生名鉄(東西連絡)のシンボルとした。, 新駅には手狭になった西部線のターミナル押切町駅を置き換える目的もあったため、まず西部線から建設を進め、次第に物資統制が厳しくなる中にあって1941年(昭和16年)に完成・開業させ、その後、東部線のターミナル神宮前までの路線建設に着手し、1944年(昭和19年)に連絡線が開通した。その間、太平洋戦争の開戦など情勢は日増しに悪化する中、戦時緊急整備路線の指定を受けて鉄道省(当時)の全面的な協力を得たものの、それでさえ建設資材の調達には困難をきわめ、不要不急路線・設備の転用を図り、さらには新名古屋 - 山王間の高架橋部分を一部木材で代用するなど、急場しのぎの工事であった。また、線路は一応繋がったものの、当初同時期に予定された西部線の昇圧工事はこの情勢では見送らざるを得ず、金山駅を境にして以西は架線電圧が600Vに据え置かれ、結局、架線電圧が1500Vの東部線とは直通運転ができないままに終戦を迎えた。なお、当初計画では、新名古屋駅地上には本社を兼ねた駅ビルの建設も予定していたが、情勢悪化を受けて基礎部分の対応工事のみに留められた。, 終戦直後は、名鉄も他の各私鉄・国鉄(当時)と同様に車両や設備の疲労・消耗が激しく、定時運行も侭ならない、さらには満足な資材とて揃わない中ではあったが、いち早く西部線の主要各線を東部線と同じ1500Vへ昇圧する工事に着手し、東西路線の一体化を戦後復興の第一目標に据えて取り組んだ。この結果、戦災の傷が未だ癒えない1948年(昭和23年)には第一次の昇圧工事が完成し、新岐阜(現、名鉄岐阜)・新鵜沼・津島 - 新名古屋 - 神宮前 - 豊橋・常滑間などが一体的に運営(直通運転)されるようになり、現在の運行形態の基礎が出来上がった。, なお、合併前の1929年(昭和4年)にも先述の「名古屋地下鉄道」として直通路線の構想は存在したが、着工までに至らなかった。, 戦後の混乱が収まるに連れて、名鉄も他の大手私鉄と同様に事業の多角化を図るようになり、その手始めとして、戦時中に計画が頓挫していた新名古屋駅(現、名鉄名古屋駅)の駅ビル建設に着手して百貨店を併設した。当初の計画では、地元の老舗百貨店松坂屋にテナントとしての出店交渉を進めたが不調に終わり、自前での百貨店経営を決意して、電鉄系百貨店の元祖である阪急百貨店の全面的な協力[注釈 1] を得て1954年(昭和29年)12月に名鉄百貨店を開業し、流通業界へ進出する足掛かりとした。その後も沿線の団地を手始めに名鉄ストアー[注釈 2] を開業して、駅の改修に併せて順次出店を進めた。, 1960年代になると、沿線各地の開発をはじめ、北陸地方への進出を図るため、現地の鉄道会社を中心に提携を持ち掛けて行った。手始めに福井鉄道を傘下に収め、当時、労働争議で揺れていた北陸鉄道へは労務管理のスペシャリストを派遣して徐々に労使の意識を「名鉄グループ」寄りへと導いていき、後に傘下入りさせるなど、経営に深く関わって行った。富山地方鉄道に対しても経営(資本)参加を持ち掛け、中古車両(3800系=富山地鉄14710形)の融通や看板列車「北アルプス号」の立山駅乗り入れなど様々な経営支援を行ってグループ内への取り込みを図ったものの、良好な会社関係の構築以上には進展せずに終わり、結果として富山県への進出は1980年(昭和55年)頃と大幅に出遅れることとなった。, 他の地域への進出は名鉄側からアプローチしたものよりも、先方から経営参加を呼び掛けられる例が多かった。前述の北陸鉄道の争議終結によって「労務管理の土川(名鉄)」と当時社長であった土川元夫の評判が地方交通事業者の間で一気に広がり、経営に行き詰った会社が「立て直し」を依頼するケースが相次いだ。その代表例としては宮城交通・網走バスなどが挙げられ、それまで東北・北海道には進出の足掛かりも無かっただけに、名鉄側も積極的に応じた。また、海外への進出も手掛けるようになり、香港・サイパン・ミクロネシアには現地法人(観光施設・ホテルなど)を次々に立ち上げていった。, グループ形成のもう一方の柱として、名鉄本体から現業(保守)部門を分社化する形で独立させた事業がある。鉄道車両の保守・修繕・改造部門を分社化した「名鉄住商車両工業」[注釈 3]、信号の保守部門を独立させた「名古屋電気工業」(現・名鉄EIエンジニア)、バスの整備部門をグループ内のトラック・タクシー会社と共通化して一般(自家用車)にも開放した「名鉄自動車整備」など、従来の鉄道・バス関連の保守事業で培った技術を使い、他社・一般向けの仕事も請負うことで独立採算制(コスト部門から脱却して利益を生み出す仕組み)を導入するなど、1960年代からユニークな試みも行われた。また、分社化に際しては名鉄の100%子会社とはせず、それぞれ関係の深かった取引先からも出資を募って『合弁企業』の形態[注釈 4]を基本とし、その点でも、昨今の私鉄各社に見られる保守部門等の分社化とは一線を画すものであった。, 1973年(昭和48年)のオイルショックを境に低成長時代となり、名鉄も事業計画を大幅に見直さざるを得なかった。喫緊の課題として自家用車から転移した影響による通勤客の著しい増加に対応するため、事業投資も路線・車両・駅施設の整備など本業優先となり、本格的な「大都市圏鉄道」へと脱皮を促すきっかけとなった。それまでの名鉄は快適な車内設備(クロスシート車)にこだわり、いわゆる『通勤型車』(3扉以上のロングシート車)を持たない[注釈 5] 大手私鉄として有名であったが、東急から純通勤車(3880系=東急3700系)を緊急導入したのをきっかけに、1976年(昭和51年)以降は本格的な『通勤車』の導入(6000系)を開始し、朝夕の通勤輸送に本腰を入れて取り組むようになった。他にも、名古屋本線を中心に待避設備の整備を加速して列車設定(ダイヤ)の自由度を上げ、犬山線を中心に各駅ホームの有効長延長に取り組むなど旧弊な路線設備の刷新を行ない、同時に駅建物の重層化(駅ビル建設)による不動産価値(賃貸料収入)の増大も志向した。, 本業に多額の設備投資を続けざるを得ない中にあっても、運輸省(当時)が採った公共料金抑制政策の影響もあり、旅客運賃は長らく他の大手私鉄と同列に扱われ続け、名鉄特有の事情(多くの不採算路線の保有)から独自の運賃改定の必要性を訴え続けていたが、なかなか認められなかった。そんな中、1974年(昭和49年)の運賃改定では、他の私鉄にはない広範囲な擬制キロ(不採算路線の営業キロ割増し)を設定し、1983年(昭和58年)には大手私鉄では初めて単独での運賃改定が認められた。以降の運賃改定は徐々に名鉄特有の事情が認められるようになり、それに比例して老朽化した旧型車の取り替えや駅設備の近代化・整備が進められた。, グループ企業についても、低成長時代に合わせて全国的な展開より本業(鉄道・バス)に付随する関連事業への深度化が進められ、駅ビル建設に伴って名鉄ストアー[注釈 2]の出店を加速するなど流通事業への進出強化や、保有する広大な山林を開発して宅地分譲を行う不動産事業など、また、貨物輸送の終焉による駅周辺の遊休地を利用してスイミングスクールを始めスポーツ・健康産業への進出など、名鉄沿線に密着した事業展開へと拡大の方向性にも転換が見られた。, 昭和後期から平成初期にかけてのバブル景気の頃は、新舞子・蒲郡など海辺を中心として沿線開発にも一層拍車が掛かり、沖縄など遠隔地でもリゾート開発事業を手がけるなど、高度成長期と同様に手を伸ばせるだけ伸ばした感のあった名鉄グループであったが、新規事業は既存の事業の延長線上に展開された事例が多く、また、事業開発の面においては先発組より後発組に属することが多かった。このため、いわゆる『先行利得』を享受できたものは僅かであり、グループ内の事業規模(売上)は拡大したものの、利益面での貢献は期待したほどの成果をもたらすまでには至らなかった。, 一方で、鉄軌道路線の整理縮減も再び開始され、1988年(昭和63年)に岐阜市内線の一部を廃止したのを皮切りに不採算路線の廃止を漸次進め、最終的には全営業路線の約1/5に相当する路線の廃止を行った(「閑散線区の合理化・廃止」も参照)。これは、バブル後『失われた10年』による経済環境の厳しさに加えて、国鉄からJRへ移行した後の猛烈な巻き返し(JR東海との旅客争奪戦)への対抗上、名古屋本線をはじめとする主要路線の設備投資に経営資源を集中させる必要と、収支悪化に伴って不採算路線への内部補助(赤字補填)が利益を圧迫しはじめた影響によるもので、全体の事業継続のためには廃止せざるを得ない路線に対して、沿線市町村との話し合いを行いつつ進められた[注釈 6]。, 1990年代のバブル崩壊後には非鉄道事業への投資が徐々に負担となり、事業の選択と経営資源(人材・資本など)の集中を余儀なくされた。手始めとして関連会社の整理・統合が行われ、グループ内で同様の事業を行っている会社同士を統合して間接費用(後方事務・管理部門等)の圧縮を試み、採算が悪化した事業(会社)の整理が行われた。, 1999年(平成11年)3月期決算では名鉄総合企業の資金運用損失(株式譲渡損)180億円の計上をはじめ、文化レジャー事業やリゾート事業の収益低下により230億円の連結決算上の赤字となり、文化レジャー事業の一部施設の閉鎖が検討されるようになる。また、名鉄本体のスリム化に手をつけ、不採算路線の多いバス事業の分社化を積極的に進め、現在のバス事業をすべて分社化した形の基礎を築いた。, 2002年(平成14年)9月には、不採算事業の撤退による固定資産売却損などの特別損失計上により、2003年(平成15年)3月期中間配当が1948年(昭和23年)10月期(半年間)決算以来55年ぶりの無配となる事態が発生。同3月期決算においては598億円の経常損失を計上し、55年ぶりに名鉄単体での赤字決算となった。これにより2003年(平成15年)1月に、不採算が続いた文化レジャー事業とバス事業を中心としたリストラ・事業分社化を柱とした2006年(平成18年)3月期までの経営合理化策を発表し、実行に移した。, 2005年(平成17年)に開催された『愛・地球博』(愛知万博)を契機として東海地方の交通再編が行われることとなり、その目玉として中部国際空港の開港が決定され、それに伴って名鉄も空港輸送を中心とした体制へと再編することになった。空港線の建設は名鉄が直接的な形では行わず、空港の関連事業の一環として『中部国際空港連絡鉄道株式会社』を設立して、同社が建設を行った。名鉄は空港線を第2種鉄道事業者(路線を借受け運行のみを担当)として営業し、フィーダーとなる常滑線に関しては徹底的に路盤強化・カーブの付け替えなどを行い、空港連絡特急用車を用意するなどの設備投資を積極的に行った。, その後も車両・駅設備のバリアフリー・安全機能の対応などをはじめ、名鉄の特徴であった2扉クロスシート車の廃車(置き換え)を積極的に進めるなど、都市間連絡輸送から都市圏輸送を主体とした輸送形態への変更を推進している。また、IC乗車券への対応を前提とした駅設備・自動改札機の整備も併せて行い、鉄道運営に関する総コストを圧縮するための設備投資を中心に行っている。これに関連して、車両設計においても鉄道会社独自の事情を考慮したフルオーダー設計から東日本旅客鉄道(JR東日本)が提唱した標準設計・部品に基づく車両の新造導入により、イニシャルコスト(車両単価)の圧縮も志向している。

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