大政奉還 坂本龍馬 保険 9

とあまりにもよすぎるタイミングから、龍馬暗殺の黒幕が薩摩藩という説もあります。 ですが、ここでは割愛し、次に大政奉還が本当に龍馬によって考えられたのかを見てい … そんなに早く終了すると悲しいです( ; ; ), ママ友との会話で旦那が工場勤務とか土方は嫌だよね〜って話題になりました。そのママ友には言っていないのですが旦那が土方仕事をしています。 大変貴重なコメントを頂きまして、とてもうれしく思います。 大政奉還(たいせいほうかん)とは慶応3年10月14日(1867年11月9日)に徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜が担っていた日本の統治権の返上を明治天皇に届け出て、翌15日に天皇がそれを許可したことを言います。日本で初めて戦うことなく政権委譲が行われた政治的な出来事です。, 基本構想は土佐脱藩浪士・坂本龍馬が考えたと言われており、江戸時代末期の混乱を平和的に解決する唯一の方策でした。, 将軍職を継ぎ、体制の立て直しと公武合体を目指す徳川慶喜率いる徳川幕府と、あくまで武力による倒幕を目指す長州藩を中心とする勢力が台頭するなかで、薩摩藩を代表する立場にたっていた西郷隆盛と大久保利通は表裏相対する戦略を進めていました。, 一つは雄藩(薩摩,土佐,越前など)の人材を政治に参加させる公武合体政策、二つ目は長州藩に与した武力倒幕路線ですが、慶喜が15代将軍職に就任してからは薩摩藩の考える公武合体政策が骨抜きにされてしまい、次第に武力倒幕路線へと傾倒して行きます。, 薩摩,長州に岩倉具視らの一部の公家を加えた勢力が武力倒幕へと進もうとしているとき、にわかに浮上したのが大政奉還論です。, 1837年11月9日、二条城で慶喜が大政奉還の奏上を決定し、翌10日に天皇から許可が出ます。この慶喜が天皇に奏上した大政奉還とは、長きに渡って日本の統治を行ってきた江戸徳川幕府がその統治権、政治実行権を天皇に返上する政策です。, 江戸時代の征夷大将軍は徳川家康以降、日本国の実質的な統治者として君臨していましたが、これは天皇が将軍宣下(将軍任命)によって日本国の行政、軍事などの政治実行権を将軍に委任しているという考え方に基づくものです。, 徳川幕府成立時点では、国内最高実力者であった徳川家康が日本国の支配者という考え方は当然ですが、これを形式的に認めるというのが将軍宣下です。日本国を統治するのは天皇で、将軍はその代理で政治を行うという事です。, ですから、徳川幕府が政治実行権を天皇に返上すれば日本の支配権も徳川幕府から喪失するという事になるのです。, 徳川慶喜のもとに届けられた大政奉還論は、当時の土佐藩参政・後藤象二郎が土佐藩の実質的な権力者・山内容堂を説得して、土佐藩主・山内豊範の名で提出されたものです。, 親徳川でありながら改革派であった山内容堂を擁する土佐藩は薩摩や長州と足並みを揃えながらも徳川幕府擁護の姿勢を変えないという、幕末雄藩の中では特異な存在でした。, このため武力倒幕へ流れが傾き出すと非常に困った立場に立たされる事になります。この時、後藤象二郎は、土佐藩を脱藩して海援隊を組織していた坂本龍馬に面会して、大政奉還論を初めて知ります。, 当時、坂本龍馬はすでに船中八策(大政奉還論及び五ヶ条の御誓文の基本構想案)を起草していて、どうすれば平和的に政権委譲が出来るか、新政府をどのように運営していくかをまとめあげていました。, これを聞いた後藤象二郎はこれこそが土佐藩を救うと考え、すぐに山内容堂を説得、薩摩を引き込んで薩土同盟を締結し、大政奉還の建白書を徳川慶喜に提出、これを実現させました。, この大政奉還論は坂本龍馬のオリジナルのように言われていますが、元々は幕臣であった大久保一翁(おおくぼ いちおう)・勝海舟、越前藩の儒学者横井小楠(よこい しょうなん)などが早い時期に提唱しており、これを聞いていた坂本龍馬が無血クーデターの切り札として構想を暖めていたのです。, 苦境に立っていた土佐藩参政後藤象二郎と平和的な政権交代を考えていた坂本龍馬の利害が一致した妥協的構想論が大政奉還でした。, 徳川慶喜が大政奉還を奏上し、土佐藩や越前藩が平和的な政権交代を行おうとしていた時、公家の岩倉具視や長州藩を中心に武力倒幕を進めるグループは討幕の密勅(天皇の命令書)を作成し、密かに準備を進めていましたが大政奉還が受諾されたため、この動きは一旦停止します。, 大政奉還を推進した慶喜や土佐藩を中心とするグループは慶喜や雄藩の藩主などの実力者で構成される議会によって政治を行う公議政体論を推し進め、三権分立や郡県制の導入などを行おうとします。, しかし、長州や薩摩などの倒幕グループは大規模な軍事行動によって京都に兵を動員するなどの動きをやめないため、慶喜は将軍辞職を朝廷に願い出て、これらの動きを牽制しますが、親幕府の会津,桑名,紀州藩は薩摩や長州の動きに反発し、大政再委任の運動を展開し始めます。, 倒幕派,公議政体派,大政再委任派が入り乱れる中、12月9日に王政復古の大号令が出され、倒幕派が一気にクーデターを実現させようとしますが、公議政体派が肥後,筑前藩などを味方にして巻き返しをはかり、慶喜の新政府への参加や幕府による外交権の保持などを倒幕派に認めさせ、王政復古の大号令の無実化を画策します。, 12月10日公議政体派浪士の代表格・坂本龍馬,中岡慎太郎が京都の近江屋で暗殺され、公議政体派と薩摩を結ぶパイプが失われてしまい、各派ともに調整がつかないまま強硬論が台頭します。, 大政再委任派と公議政体派の強硬派は慶喜を頂点にした政権樹立構想を掲げ、アメリカなどの6か国公使をも巻き込んで王政復古の大号令の撤回を要求します。, これに危機感を覚えた薩摩,長州らの倒幕派は明治新政府の政治構想が骨抜きにされるのを恐れ、一気に武力討伐へと舵を切り、京都に駐屯していた幕府軍を薩摩藩が挑発、幕府側の一部強硬派がこれに乗せられてしまい、鳥羽伏見の戦いが勃発しました。, この戦いで薩摩,長州が掲げた錦旗(きんき・天皇から与えられる官軍の軍旗)をみた幕府軍は戦意を喪失し敗走を重ねます。, 徳川慶喜による大政奉還は、当初の平和的政権交代という目的から離れ、鳥羽伏見,甲州勝沼,宇都宮城,北越,東北,箱館討伐に続く戊辰戦争を引き起こし、多くの犠牲者と経済的な損失を日本にもたらしてしまいます。, 大政奉還からの一連の流れは誰一人として日本国のことを考えず、おのれの利益や個人的恨みだけで物事を考えると、このような悲劇をもたらすという、大いなる教訓と言える出来事だったのです。. ご贔屓くださり、心より感謝申し上げます! 変な質問でごめんなさい。2年前に結婚した夫婦です。それまで旦那は「専門学校卒だよー」って言ってました。 駒ちゃんと義昭の、、、 【D】菜種, 豊臣秀吉の子孫はいないですか?秀吉の親戚まで拡大した場合、秀吉の子孫と称しても問題ない人は今の時代にいますか?. NHKで立皇嗣の礼を見ましたが、天皇皇后両陛下と秋篠宮さま紀子さま及び侍従、女官、宮内庁幹部のみ国風装束でした。そこで質問ですが、正殿松の間は下履き靴用の部屋ではないのですか? (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 今回は、織田信長と浅井長政が激突!姉川の戦い(あねがわのたたかい)について、わかりやすく解説していきたいと思います! そもそも、姉川の戦い... 今回解説していくのは室町時代の初期に起きた兄弟喧嘩である観応の擾乱! この内紛は南北朝の動乱も相まって日本中を巻き込む大騒動となりましたが... 今回は、江戸時代におきた最大の弾圧事件『安政の大獄』について解説していきます! 安政の大獄とは? 主な死者は? 井伊直弼が弾圧を行った理由... 今回ご紹介するのは、井上馨です。 幕末期から大正期まで、長らく政界・財界に影響を及ぼし続けた男は、いったいどのような人物であったのでしょう... 今回解説していくのは平将門! 平将門といえば平将門の乱を起こし、そして死後には怨霊となったイメージが強いのですが、今回はそんな平将門につい... 今回ご紹介するのは、南北朝時代です。 ただ単に2つの勢力が対立していただけでなく、朝廷が2つ存在するという史上唯一とも言えるこの時代は特殊で... 今回は、1873年に明治政府が行なった改革『地租改正』について解説していきたいと思います! ・地租改正とは? ・地租改正の目的や条例について... 今回ご紹介するのは、大化の改新です。 豪族蘇我氏が天皇の廃位・擁立をするほど権力を誇っていた時代に、その専横を快く思わなかったとある人物が... かねてから徳川家の立場しか考えていなかった幕府に愛想をつかしていた薩摩が、坂本龍馬の仲介で秘かに長州と同盟を結びます。, 名目上は幕府を閉じて天皇を政治のトップに据えながら、引き続き自身の政治力で日本を動かそうと考えていた, 12月10日は大政奉還の発案者とされる坂本龍馬が、京都の宿屋である近江屋にて、中岡慎太郎とともに暗殺されます。, 一橋慶喜をはじめ、幕府勢力を排除しつつ、天皇自らをトップに据えて一部の公家と雄藩による新たなる政治体制を確立させるというもの, そもそも『船中八策』という言葉が大正時代から使われたことからも、龍馬の創作だったという向きが多くなっています。, 大政奉還後に龍馬は『新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)』という、船中八策を簡単にしたような案を直筆で書いており、これが今日の国立国会図書館に保存されています。, 自身が尊皇派でもあった慶喜は、尊王攘夷の気が高まるにつれて天皇の意向を無視できなくなり、自身の政務拠点を江戸から京都に移したとみていいでしょう。, 間接的ではありますが、江戸を戦場にせず、江戸城無血開城の下地を作ることになりました。. 4.幕府と親しい人間が多かった摂政・関白の廃止。 また、どんな時に使い、言葉の由来も、教えて下さい。, ゴートゥーイートキャンペーンがいきなり終了しても、無限クラの予約分(11月26日)のポイントはつきますか?. 坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日〈新暦・1836年 1月3日〉 - 慶応3年11月15日〈新暦・1867年 12月10日〉)は、江戸時代 末期の志士、土佐藩 郷士。. 結婚したことを後悔しています。私と結婚した理由を旦那に聞いてみました。そしたら旦那が「顔がタイプだった。スタイルもドンピシャだった。あと性格も好み。」との事です。 武力衝突を避けようとしていた「赤松小三郎」・・・赤松と意見が異なる人物といえば、武力倒幕を主張していた薩摩の「西郷隆盛」か「. 訂正されることをお薦めします。, 先日はおせわになりました。 幸運にも、天皇の権威を生かしながら国民が参加できるように変化した欧米型の政治形態の展開に新明治政府が成功したのは、少なからず龍馬の活躍や、龍馬の構想に賛同していた者たちの考えが会ったからといえます。, それだけでなく、龍馬の育てた人材や、海援隊も後に近代化していく日本を支える重要な柱となったことも、龍馬の偉大な功績のひとつです。, それだけ存在が大きかった人物にもかかわらず、残念ながら、今でも坂本龍馬暗殺事件の謎は解明されていません。ですが本記事をきっかけに、あなたの考える龍馬暗殺を想像するのも、面白いかもしれません。. 早速訂正させていただきます。 JavaScriptが無効です。ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてください。JavaScriptを有効にするには, もし、坂本龍馬が大政奉還が出来ずに死んでいたら江戸時代はいつまで続いていましたか 卑弥呼とはどんな人?生涯・年表まとめ【邪馬台国の場所や功績、まつわる謎や死因も紹介】. (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); ・「人斬り半次郎」と呼ばれた「桐野利秋」に殺害された「赤松小三郎」の「建白七策」が基礎、という説もある, 「船中八策」・・・・それは幕末の英雄「坂本龍馬」が、明治維新の前年である1867年に、前土佐藩主「山内容堂」に「大政奉還」を進言するために乗っていた船の中で、「後藤象二郎」に語る形で、作り上げた新国家への基本方針のことです。, その「船中八策」を簡略化して書いた物が、以下に画像を用意いたしました「新政府綱領八策」であると言われています。, この龍馬直筆の「新政府綱領八策」は2つ現存しており、現在「国会図書館」と「長府博物館」に保管されています, 龍馬は「近江屋事件」で亡くなる間際まで、「新政府」の人事構想などを練り続けていたわけですが、この「船中八策」は、明治新政府の基本方針に影響を与えた・・・と言われています。, ちなみに、「船中八策」を基礎としてつくられたと考えられる「新政府綱領八策」も、似たような内容になっています。, この「盟主」と定められた「○○○」とは、徳川慶喜または松平春嶽ではないか?と言われています。, ○○○に入る文字は「慶喜公」または「春嶽公」・・・どちらなのかは定かではないですが・・・龍馬が「挙国一致体制」を構想していたことだけは確かです。, 「横井小楠」・・・・・勝海舟が、西郷隆盛と並んで「恐るべき逸材」と呼んだ熊本藩士・・・・幕末の日本において、「四賢侯」と呼ばれた名君の一人、福井藩主「松平春嶽」のブレーンでもあったお方です。, その横井小楠が、「国是七条」という政府の基本方針を作成しているのです。その内容は以下の通り, 2、参勤交代を中止し、各藩各大名が、将軍にそれぞれの藩の状況を報告する制度へと改革せよ, 5、少人数によってすべてを決める政治体制を改め、広く賢人の意見を求める政治に改革せよ, 上に記しました坂本龍馬の「船中八策」と比べてみると「大政奉還」「海軍増強」「優秀な人材の積極登用」「貿易・金銀レート」など、重なる部分が多いことがわかります。, 坂本龍馬は、1864年2月、勝海舟の使者として熊本の横井小楠を訪ねているのですがその時、横井小楠本人から直接この「国是七条」を説明してもらっているのです。, 「船中八策」・・・1868年に明治天皇が出した明治政府の基本方針「五箇条の御誓文」にも、大きな影響を与えたとも言われています。, 3、公家も武家も、官も民も一体となって志を遂げて、人々の心が、行き詰ることのないようにすべし, 「広く人材・意見を求める」「公明正大に政治を行う」「朝廷・天皇を基礎として政治を行う」など、船中八策・国是七条を基礎としていることがよくわかります。, 船中八策や国是七条は、龍馬や横井小楠が願っていた通り、明治新政府の基本方針となったということですね, 「坂本龍馬の新政府綱領八策は、上田藩士・赤松小三郎の『建白七策』こそが基礎である」, 英国式兵学を京都の私塾で教え、東郷平八郎や桐野利秋(中村半次郎)などの薩摩藩士にもイギリス式兵学を教えたお方。, 赤松小三郎さんは、勝海舟の門下生となり、長崎海軍伝習所でオランダ人から学んでいました。, 慶応三年(1867年)5月に、松平春嶽や島津久光、そして幕府に対して「国政改革の建白(建白七策・御改正之一二端奉申上候口上書)」を提出。, この「建白七策」は、「二院制議会」や「普通選挙」・・「国権の最高機関としての議会」「内閣総理大臣」などの「議院内閣制」まで発案されています。, 横井小楠が「国是七条」を起草したのは「文久2年(1862年)」ではあるものの、その「横井小楠」もまた「赤松小三郎」から影響を受けていた可能性があるのだとか・・・。, この赤松小三郎さん、最後の最後まで「幕府」と「薩長」の武力衝突を回避しようと奔走していたのだとか。, そんな中で、慶応三年(1867年)9月3日、赤松小三郎は上田藩への帰国途中に暗殺される事となります。, 赤松小三郎が、自らの「京都の私塾」で教えていた生徒「中村半次郎」に暗殺されてしまったのです。, 誰が「人斬り半次郎」に暗殺を指示したのか?未だに謎となっているようですが・・・・。, 武力衝突を避けようとしていた「赤松小三郎」・・・赤松と意見が異なる人物といえば、武力倒幕を主張していた薩摩の「西郷隆盛」か「大久保利通」・・・。, もしかすると「西郷」「大久保」が暗殺の裏にいるとか???確証はありませんし、ただの想像ですがね・・・・・・・・。, 最期に、当サイトを御覧いただきましたお方より、非常に素晴らしい情報とご指摘をいただきましたこと、心より感謝申し上げます。自らの不明と無知を恥じておりますが、どうか今後とも当サイトをよろしくお願いいたします。ありがとうございました。, ・赤松小三郎の「建白七策」こそが、「国是七条」「新政府綱領八策」の基礎であるという説もあり, これらの記事でも「坂本龍馬」の「逸話」や「功績」を簡単に理解できるように、極めてわかりやすく解説させていただいております。, 新政府綱領八策についての記述、楽しく読みました。 基になるのは、横井小楠が記述したと、述べられていますが、違うと思います。 私の調査結果では、その基になったのは赤松小三郎が福井藩主松平春嶽と薩摩藩主島津久光に同時に提出した、「建白七策」と思います。 坂本龍馬は、松平春嶽と暗殺されるまで数回会っています。一方、横井小楠も春嶽に近い存在で有り、両者は、小三郞の建白書を春嶽から見せられ、意見を求められていたと思います。 現在、東京の憲政記念館で開催の特別企画展示で小三郞の「建白七策」が展示されています。 最近の作家や大学の先生の間では坂本龍馬の新政府綱領八策が小三郞の「建白七策」を基にしたものである事を検証すべきと論議 みなさんいかがでしたでしょうか? 世間のイメージとはそういうものなのでしょうか?. これほど貴重な情報をいただけるとは、夢にも思っておりませんでした。 5.新たに総裁・議定・参与の三職を置く。, これは一橋慶喜をはじめ、幕府勢力を排除しつつ、天皇自らをトップに据えて一部の公家と雄藩による新たなる政治体制を確立させるというものでした。, 新しい政権の中枢から遠ざけられた幕府勢力はついに不満が爆発、この挑発に乗る形で鳥羽・伏見の戦いが始まり、戊辰戦争の引き金となります。, ですが、ここでは割愛し、次に大政奉還が本当に龍馬によって考えられたのかを見ていきます。, 通説上、大政奉還は坂本龍馬が土佐藩主・山内容堂(やまうちようどう)の側近であった後藤象二郎(ごとうしょうじろう)にアドバイスした案『船中八策(せんちゅうはっさく)』が元となったというのが通説。, これが後藤によって容堂に渡され、意見書である『建白書(けんぱくしょ)』として慶喜に提出され、大政奉還の案となっていきます。, (開国当時、欧米人が金の多い日本の小判を自身の銀貨と安く交換し、現地に帰って小判を高く売ってぼろもうけするケースが多く、それを防ぐために幕府が大判小判の金の量を下げた結果、ものすごい物価高で人々が苦しむことになったので、それを防ぐためのものでした。), しかしながら、そもそも『船中八策』という言葉が大正時代から使われたことからも、龍馬の創作だったという向きが多くなっています。, 龍馬は筆においては教養がなかったことから、船中八策も龍馬が口で指示したものを海援隊士に書かせたといわれています。, 元々議会制からして龍馬自身の持論ではなく、龍馬の師匠であった勝海舟や、幕臣の大久保一翁(おおくぼいちおう)の持論であったという説が強く、しかも一翁にいたっては『幕府勢力を維持するために、議会制を取り入れるべきだ』という持論の持ち主だったようです。, 家柄ではなく実力で、というのも、勝が幕府高官の多くを占めていた由緒正しい家柄ではなく、祖父の代に幕臣の身分を金で買った『金上げ侍(かねあげざむらい)』であることから影響されています。, 少なくとも船中八策の多くは、龍馬自身の意見ではなく、彼の師匠からの受け売りというところが真実のようです。, しかし大政奉還後に龍馬は『新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)』という、船中八策を簡単にしたような案を直筆で書いており、これが今日の国立国会図書館に保存されています。, この中に、『〇〇〇自ら盟主(めいしゅ。トップ)となり、天皇名義で公表するように』というくだりが出ています。, 『〇〇〇』が誰かはいまだに分かっておらず、慶喜とも容堂ともいわれていますが、この表記のあいまいさが「龍馬は慶喜を引き続きトップに据えて、新政府軍を作る気だ」という考えを討幕派に与え、龍馬は幕府派のみならず討幕派まで敵に回し、龍馬暗殺につながったという説もあります。, 元々京都の二条城は、徳川家康が豊臣及び朝廷を監視するために1603年に建てたものであり、のちの豊臣秀頼と家康の会談や、大坂の陣における家康の本拠点として重要な役割を果たしていました。, それ以降は主に天皇を招き入れる施設としていましたが、京都で朝廷と交渉する京都所司代は二条城の北に拠点を構えていたため、政務拠点としては機能していませんでした。, しかし、やがて幕末になって朝廷の影響力が大きくなると、慶喜は朝廷の影響力を無視できなくなり、1866年の将軍就任もこの城で行い、二条城の北で政務を行っていた京都所司代の監視をしやすくしました。, つまり、自身が尊皇派でもあった慶喜は、尊王攘夷の気が高まるにつれて天皇の意向を無視できなくなり、自身の政務拠点を江戸から京都に移したとみていいでしょう。, 慶喜の予想通り、長らく政治の中枢から外されていた朝廷は、突然の大政奉還に困惑しますが、とりあえず後藤象二郎の説得もあって了承します。, しかし、長い間朝廷は異人嫌いでありながら、特に外国との交渉に携わったことはなく、定期的に雄藩と幕府の話し合いを設けるとしつつ、当分の政務と外交は慶喜に引き継がせます。, 実際にこの後、諸外国に対し新潟の開港の延期、ロシアとの条約改定は幕府名義で行われております。, ちなみに慶喜自身は、大政奉還後の政権ビジョンもできていたらしく、実質的トップとなる『大君(たいくん)』を慶喜自身を含む徳川家将軍が行って、行政と司法のトップを務め、立法権を持つ議会は諸藩大名や藩士にならせるものの、大君が上院議長と下院の解散権を持つというものでした。, 天皇は今と同じ『日本国民がまとまっていることの象徴』とされ、幕府がなくなっても慶喜自身が大君として政治を動かそうと考えていたのです。, しかし、これでは形だけ幕府がなくなり、その後も慶喜が引き続きトップとして多くの権限を持つということであり、討幕派は大きく反発。, 摂政・関白をはじめとする朝廷上層部が幕府派の人間であることもいけないと考えるようになり、これ以降、兵を率いて京に上京。, 朝廷における岩倉の赦しと京都から追放されていた三条実美らの朝廷復帰が許された後、朝廷の門を全て占め『王政復古の大号令』という形でクーデターを行います。, この後の会議で、慶喜の朝廷での地位『内大臣(ないだいじん。左大臣・右大臣に次ぐ官)』の辞任と幕府が支配していた土地をすべて返還するという『辞官納地(じかんのうち)』がまとまり、慶喜が中枢から正式に遠ざけられることになりました。, 大政奉還で実質上トップに立つはずだった慶喜が、王政復古の大号令で政権の中枢から遠ざけられ、薩摩の挑発も相まって戊辰戦争を引き起こすのですが、こののちの慶喜について次に見ていきます。, 討幕の密勅と王政復古の大号令に激怒した慶喜は、薩摩の挑発に反応し、京都の鳥羽・伏見の戦いで激突。, しかもこの時に薩長率いる新政府軍が、天皇の軍であることを証明する『錦の御旗(にしきのみはた)』を掲げたため、慶喜率いる旧幕府軍は、自分達が天皇に歯向かう悪者『賊軍(ぞくぐん)』扱いされることになり、大きく動揺します。, 慶喜もまた、尊王の考えのおひざ元である水戸藩の生まれであるため、人一倍動揺が大きかったものと思われます。, 旧暦では1月6日、現代の暦時法では1月30日に大阪城の兵を置いて江戸に逃げ帰った慶喜は、朝廷で慶喜追討の命令が出された中、上野の嘉永寺(かえいじ)で必死に謹慎を行い、勝海舟や大久保一翁といった面々を使って新政府軍に抵抗する意思がないことを表明し、間接的ではありますが、江戸を戦場にせず、江戸城無血開城の下地を作ることになりました。, 旧幕臣であり、明治維新で立憲帝政党(りっけんていせいとう。政府の御用政党と呼ばれた)や東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん。後の毎日新聞)を作った福地源一郎(ふくちげんいちろう)は、「江戸開城で江戸幕府は滅亡した」と回想しております。, 無血開城に不満を持った幕臣も少なくありませんでしたが、彼らに担ぎ出される前に脱走して、生まれ故郷の水戸でひたすら謹慎。, 1869年の戊辰戦争終結後に謹慎を解かれると、家康が隠居後に住んだ駿府改め静岡に移住し、政治的野心を持たないまま趣味に没頭し、地元の人から『ケイキ様』と呼ばれて親しまれました。, しかし、旧幕府で高官を務めた家を含む多くの旧幕臣たちが、維新後ほとんど没落しても無関心で、『貴人、情を知らず(きじん、じょうをしらず。生まれついてのお殿様は、人情というものを知らないという意味)』と陰口をたたかれるようになっております。, 1901年から1910年まで政府の貴族院議員(選挙ではなく天皇名義で任命されます)を務めた後、隠居。, 77歳という、歴代江戸幕府将軍の中では最年長で、かつ当時の平均寿命約48歳を大きく超えた歳で寿命を全うしました。, しかし薩摩藩をはじめとする、幕府ら旧体制の勢力を一掃しようと考える討幕派によって王政復古の大号令がなされ、慶喜は中枢から遠ざけられた挙句に朝敵にされ、これ以降旧幕府派の神輿になることなく、明治政府の中枢からも外れていきます。, かたや龍馬の意向を受けて大政奉還を進言したとされる土佐藩主・山内容堂は、鳥羽伏見の戦いにおいて、「これは薩長が起こした不当な戦である!」と反発しつつも、岩倉に「ならば土佐は慶喜側につきなさい!」と一括されて反論できず、後に薩長と足並みをそろえたといわれています。, 元々薩長同盟は土佐の龍馬が世話したうえで出来たものであり、今更幕府につくのは筋が通らないと見たのでしょう。, しかもこの時には龍馬も暗殺され、海援隊も消滅したため、歯向かう自信がなかったと思われます。, 結果的には、大政奉還は慶喜の目論見からも龍馬の目論見からも外れ、名実ともに幕府消滅と、朝廷を神輿にした薩長の政権奪取という結果に終わります。, しかし、かつて徳川の領地であった東国では旧幕府の力が比較的強く、戊辰戦争を通して、薩長は彼らの力の一掃を行います。, 歴史にもしもはありませんが、大政奉還という妥協案が成功し、以降も徳川が大君として政治の実質的なトップにたったら、のちの歴史はどう変わったでしょうか。.

ダッシュ 英語 訳し方, Tx 回数券 自販機 守谷, エクセル アプリ 開かない, ハンドソープ 泡 ボトル ニトリ, Aupay ポイント 貯め方, エクセル 画像 リンク 埋め込み 変換, カトージ Joie アーク360 口コミ, イルキャンティ 河口湖 メニュー, 還付金 充当 仕訳, Excel 関数 文字列 検索 抽出, ビックバン 宇宙 にゃんこ, ニコニコ 営利 利用, Lisa 紅蓮華 売上枚数, きらきら星 楽譜 伴奏, キャラバン テーブル 自作, Vba サブフォルダ ファイルコピー, 糸 カバー 男性最近, Photoshop 選択範囲 消去できない, 女子駅伝 結果 大学, コンビニ ホットスナック 2020, Atok Passport プレミアム違い, デュラエース レコード 比較, スマホ 液晶 黒い影, 海 描き方 アナログ, へんとつくり 3年生 ゲーム, 大分県 市町村 読み方, 松屋 ハンバーグ トリュフ, Googleフォーム 回答 確認メール, 大丸 お歳暮 早期割引, 還付金 充当 仕訳, パナソニック エアコン 勝手に止まる, チラシ 折り紙 箱, ヨドバシ コールバック かかってこない, インスタ アイコン 赤い丸, プッキー 三輪車 比較,

Leave a Reply