本能寺 の変 簡単に 9

35日間の連投で、和樂webに掲載された歴史記事を中心にご紹介してきましたが、本日が一区切りとなります。本日のテーマは「本能寺の変」です。, 天正10年(1582)6月2日早朝、京都本能寺にて織田信長(おだのぶなが)死す。戦国最大の謎ともいえる本能寺の変で、明智光秀(あけちみつひで)はなぜ、主君の信長を討ったのでしょうか。動機については古来、怨恨(えんこん)説が語られてきましたが、その後、野望説や黒幕存在説なども生まれ、今もなお研究者の間で議論が続いています。今回は各説のあらましと研究の最前線から、大河ドラマ『麒麟がくる』のクライマックスである本能寺の変の真相を探る記事を紹介します。, 天正10年5月27日、中国出陣を控えた光秀は京都の愛宕(あたご)山に登り、愛宕神社に参詣しました。愛宕神社は軍神・勝軍(しょうぐん)地蔵を祀っており、光秀は戦勝を祈願したといわれます。翌日、光秀は神社内の威徳院(いとくいん)で連歌(れんが)会を催しました。のちに「愛宕百韻(ひゃくいん)」と呼ばれる会ですが、その発句(ほっく、最初の第1句)として光秀が詠んだのが冒頭の「ときは今~」です。, 普通に読めば、「今はまさに梅雨の盛りの五月だなあ」という何ということはない句ですが、古来、この句に光秀は別の意味を隠していたといわれてきました。すなわち「とき」は明智氏の本流である「土岐(とき)」、「あめが下しる」は「天が下治(し)る」で、「今はまさに土岐が天下を治める五月であることよ」という意味だというのです。だとすれば、光秀はこの時点で謀叛の決意を固めていたことになりますが、一方で、その日に光秀は山陰方面に、中国へ出陣することを知らせる書状を送っていました。これは何を意味するのでしょうか。, 「愛宕百韻」の翌日にあたる5月29日、信長はわずか30人ほどの小姓(こしょう)衆を連れて、近江(現、滋賀県)の安土(あづち)城を出発し上洛、16時頃には宿所の本能寺に入ります。中国で毛利(もうり)氏と対峙(たいじ)する羽柴秀吉(はしばひでよし)の要請に応え、出馬するためでした。, 信長の身を護る親衛隊というべき馬廻(うままわり)衆は、信長に先発して京都に入った息子の信忠(のぶただ)に随行しており、京都市中の各所に分散して宿泊します。つまり信長の宿所・本能寺や信忠の宿所・妙覚寺(みょうかくじ)の護衛の人数は少なく、ある意味、ノーガードで信長は京都にいました。警戒心の欠如は、自分を襲う者などいないという信長の自信のあらわれだったのでしょうか。光秀にすれば、願ってもない状況が整っていたことになります。, 6月1日、日食が起きました。信長は本能寺で、公家衆や僧侶らに持参した名物茶器を披露していましたが、日食が起こると、朝廷が用いている宣明暦(せんみょうれき)では日食が予測できていないことを指摘。当時、日食は不吉な光であるとして、天皇に当たらぬよう御所を薦(こも)で包む風習がありましたが、その日は間に合わなかったのです。信長は帝に対して恐れ多いと、日食を予測できる東海地方の三島暦(みしまごよみ)に改めるよう告げました。しかし暦の管理は朝廷の専権事項であり、それを平然とくつがえそうとする信長に公家らは顔色を失います。, その日の夕方、光秀は丹波亀山城(現、京都府)を発します。信長に先発して、中国地方に向かう光秀の軍勢は13,000。山陰道を老ノ坂(おいのさか)へと進み、沓掛(くつかけ)で小休止。道を右に行けば山崎を経て摂津(現、大阪府)、左に行けば京都です。西国に向かうのであればもちろん右ですが、光秀は馬首を左に向け、京都に入るよう命じました。本能寺の変の始まりです。光秀はなぜ、信長を討つ決断を下したのか。その動機とは何であったのか。和樂webの記事「明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?戦国最大のミステリーに迫る!」をお読みください。, さて、記事はいかがだったでしょうか。光秀は本能寺の変の当日、もしくは翌日に書いた書状に「信長父子の悪虐(あくぎゃく)は天下の妨(さまた)げ、討ち果たし候(そうろう)」と記しています。信長とその後継者信忠に対し、何か強い憤(いきどお)りを感じていたのでしょう。もちろん、自分の行いを正当化するための後付けの文言ともとれますが、もし野望で信長を討ったとするならば、その後、もう少し次々と手を打ったのではと私は感じます。信長を討ったことで、すでに目的を果たしたような印象すら受けてしまうのです。, 本能寺の変後、組下大名である細川藤孝(ほそかわふじたか)、筒井順慶(つついじゅんけい)らが味方にならなかったのも大きな誤算でしょう。逆にいえば、そうした根回しもできないうちに、突発的に本能寺の変を起こしたともいえそうです。果たして光秀を謀叛に踏み切らせたものは何であったのか。皆さんはどうお考えになるでしょうか。, なお和樂web掲載中の記事は本日までにほとんど紹介しましたが、またさまざまなかたちで歴史にまつわる記事をnoteにアップできればと考えていますので、よろしくお願いいたします。, いただいたサポートは参考資料の購入、取材費にあて、少しでも心に残る記事をお届けできるよう、努力したいと思います。, 戦国時代をテーマにした記事を集めました。明朝の出陣を控える城中、かがり火に照らされながら、しばしゆるりと酒を飲む気分でどうぞ。, 日本の歴史が好きで、歴史雑誌の編集もしていました。好きな時代は戦国、江戸、幕末、近代等々。歴史好きが日々の中で感じたこと、またかつて取材で体験したことなどを紹介しつつ、歴史の魅力をお伝えしたく思います。歴史を知るとは、人間そのものを知ること。一緒に先人たちの知恵を探りましょう。, ぶれいず様、コメントありがとうございます。私もまったく同感です。信長を討つ目的は何であったのか、たとえ史料的根拠がなくても、ドラマとして説得力のある描き方をしてくれないかなと期待しています。. 表門は登録有形文化財です。表門は間口約4.9メートルの薬医門で、左右に袖塀が付いています。表門は1871年(明治4年)に造営された恭明院の門が1880年(明治13年)に移されました。なお表門は瓦葺です。, 【本能寺 信長公御廟所・見どころ】★★★修学旅行 本能寺の変 (ほんのうじのへん)とは 天正 10年 6月2日 ( 1582年 6月21日 )早朝、 京都 本能寺 に滞在中の 織田信長 を家臣・ 明智光秀 が 謀反 を起こして襲撃した事件である 。 ※2 松野一忠と土方次郎兵衛は変後に追腹をした[177]。 在野史家の桐野作人はそのような学会での評価を踏まえた上で、本能寺の変の真相を究明することで織田権力内部における固有の矛盾の有り様や織田権力末期の実態を解明できるかもしれないとしてい[224]。, しかし史料が存在しないということは、裏返すと個人の推理や憶測といった想像を働かせる余地が大きいということであり、中世史研究家ではない「素人」でも参入しやすい[229]。このため、在野の研究家のみならず、専門の中世史研究家ではない小説家・ライターといった多くの人々が自説を展開してきた[229]。呉座はこれほど多くの説が乱立している日本史上の陰謀は他にないと評している[229]。, なぜ光秀は信長を討ったのか。「これが定説だ」とか「通説になっている」というものは現在のところ存在しない[230][注釈 51]。変の要因については、江戸時代から明治・大正を経て昭和40年代頃までの「主流中の主流」[222]の考えは、野望説と怨恨説であった。「光秀にも天下を取りたいという野望があった」[230]とする野望説は、謀反や反逆というものは下克上の戦国時代には当たり前の行為[230]であったとするこの頃の認識から容易く受け入れられ、古典史料に記述がある信長が光秀に加えた度重なる理不尽な行為こそが原因[231]であったとする怨恨説と共に、史学会でも長らく揺らぐことはなかった。これは講談・軍記物など俗書が広く流布されていたことに加えて、前節著名な逸話で述べたように、二次、三次的な古典史料に対して考証的検証が不十分だったことに起因する。2説以外には、頼山陽が主張した自衛のために謀反を起こしたとする説[232]など、受動的な動機を主張するものの総称である不安説(焦慮説/窮鼠説)もあったが、怨恨が恐怖に復讐が自衛に置き換わっただけで論拠に本質的な違いはなかった。, 戦後には実証史学に基づく研究が進んだが、この分野で先鞭をつけた高柳光寿は野望説論者で、昭和33年(1958年)に著書『明智光秀』を発表してそれまで比較的有力視されてきた怨恨説の根拠を一つひとつ否定した[230]。怨恨説論者である桑田忠親がこれに反論して、両氏は比較的良質な一次史料の考証に基づいた議論を戦わせたが、桑田は昭和48年(1973年)に同名の著書『明智光秀』を発表して、単純な怨恨説(私憤説)ではなく武道の面目を立てるために主君信長を謀殺したという論理で説を展開した[230]ので、それが近年には義憤説、多種多様な名分存在説に発展している。信長非道阻止説の小和田哲男もこの系譜に入る。また野望説は、変後の光秀の行動・計画の支離滅裂さが批判されたことから、天下を取りたいという動機を同じにしながらも事前の計画なく信長が無防備に本能寺にいることを見て発作的に変を起こしたという突発説(偶発説)という亜種に発展した[230]。しかし考証的見地からの研究で判明したことは、結局、どの説にも十分な根拠がないということであり、それがどの説も未だに定説に至らない理由となっている。, 野望説も怨恨説も不安説等も光秀が自らの意思で決起したことを前提とする光秀単独犯説(光秀主犯説)であったが、これとは全く異なる主張も現れた。作家八切止夫は、昭和42年(1967年)に著書『信長殺し、光秀ではない』を発表して主犯別在説(いわゆる、陰謀論の一種)の口火を切った。八切は「濃姫が斎藤利三と共謀して本能寺に兵を向けさせた。その際、四国侵攻準備中の織田軍をマカオ侵略と誤認した宣教師が、爆薬を投げ込んで信長を殺害したもの」[222]で「光秀自身はまったく関与していない」と書き、光秀無罪という奇想天外な主張をしたので、歴史家には無視されたものの、史料の取捨選択と独自解釈について一石を投じるものとなった[222]。, また、昭和43年(1968年)に岩沢愿彦が「本能寺の変拾遺 ―『日々記』所収天正十年夏記について」[233]という論文を発表して勧修寺晴豊の『日々記』を活字で復刻した[234]ことをきっかけにして公家衆の日記の研究が進み、平成3年(1991年)に立花京子が『晴豊公記』の新解釈に基づく論文「信長への三職推任について」[235]を、平成4年(1992年)には今谷明が著書『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』を発表して注目を集めた[236]。平成頃になって史学会では朝廷黒幕説(朝廷関与説)が脚光を浴びて、有力な説の1つのように見なされるようになった[237]。従来より黒幕説は登場人物を自由に動かして“物語”を書きやすいことから作家に好まれたものであり、数えきれないほどの人物が黒幕として取り上げられていた[238]が、そういった創作分野に史学が混ざったことで一層触発されて、現在も主犯存在説と黒幕存在説(共謀説)の2系統[注釈 52]、そして複合説と呼ばれる複数の説を混ぜたものが増え続けている。平成21年(2009年)に明智憲三郎が発表した著書『本能寺の変 427年目の真実』[注釈 53]は共謀説に分類される。, こうして光秀単独犯説が定番だったものが、光秀を背後で操る黒幕がいたとか、陰謀があったとか、共謀者がいたとかいう雑説が増えていくと、黒幕説(謀略説)には何の史料的根拠もなく空中楼閣に過ぎないという当然の反論や批判が登場した。平成18年(2006年)に鈴木眞哉と藤本正行は共著『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』で黒幕など最初からいないとして、黒幕説には以下の共通する5つの問題があると指摘した[239]。, 藤本は平成22年(2010年)に発表した著書『本能寺の変―信長の油断・光秀の殺意』でも朝廷黒幕説を含めた各種の黒幕説を批判している[240]。, また平成26年(2014年)の石谷(いしがい)家文書の公表によって、近年は四国征伐回避説(四国説)も着目されているが、この説の取り扱いについては後述する。, 本能寺の変の謎については結局は肝心の動機がわからず定説が存在しないため、さまざまな諸説・空説が登場し、歴史家・作家だけでなく歴史愛好家も自らの主張を展開して、百花繚乱という現状であるが、平成6年(1994年)に歴史アナリスト後藤敦が別冊歴史読本(『完全検証信長襲殺 : 天正十年の一番長い日』)誌上で、これらの諸説を整理して大きく3つに分けてさらに50に細分化して分類した。下表はそれに別資料の8つを加えて58にまとめたものである。これらには一部が重複するあるいは複合する内容や同じことを別の表現で言っているものがある[241]ために、それぞれが全く異なる説であるというわけではない。表の中身には研究と創作とが混ざっており、中には何ら史料的裏付けがなく、全くの憶測で説が提唱されている場合もあり[241]、すべて同等に扱うのは適切ではない[241]が、全体像を明らかにするために一覧として示した[注釈 54]。, 明智光秀が自らの意思で決起して本能寺の変を起したという説の総称。単独犯行説や光秀主犯説、光秀単独謀反説など幾つか同義の言い方がある。, 謀反は光秀の本意ではなく、何らかの理由があって止むを得ずに決起したという説の総称。, 光秀が謀反を起こした理由を、野望や怨恨、恐怖といった感情面に求めるのではなく、信長を討つにはそれだけの大義名分があったとする説の総称[254]。光秀が自ら決起したことを前提にして私的制裁(狭義の私憤説)を否定し、時には個人的な野心すらも否定する。大義名分が何であったか、大義(もしくは正義)の内容によって諸説が派生した。史料的論拠が不十分でも大義という論理に基づいた行動は説得力があるように見えるので歴史学者が好んで用いて、近年多くの説が発表されている。義憤説、理想相違説など様々な呼び方がある。, 幾つかの説を組み合わせて、内容を取捨選択、補完して説を形成しているものの総称。無限にでもバリエーションを作れるが、説として史料的に論証されたものは存在しない。そもそも根拠が示されていないものも多く、論証することは余り考慮されていない。幾つかの状況証拠の点と線を結び付けて説を構成するのに便利なために作家・歴史愛好家が良く用いる。, 主犯存在説(主犯別在説)は、実行者や主犯となるべき人物が光秀以外の他の別人であるという説の総称。無罪説とも言う。, 従犯存在説は、光秀を主犯にあるいは主犯を特定せずに、謀反を幇助した従犯の存在に着目して、本能寺の変の全像の一部を解説しようという説の総称。黒幕説を補完するだけのものもあるが、必ずしも黒幕説や陰謀論に与するものだけではなく、変の要因の背景に着目するものも含まれる。, 信長を討ったのは光秀自身の意思ではなく、何らかの黒幕の存在を想定してその者の意向が背景にあったとする説の総称。黒幕を複数と想定するものは黒幕複数説に分類され、共謀説と云う。複合説も参照。, 信長の朝廷政策については、従来より研究者の間で見解が分かれており、結論はでていない。本能寺の変と朝廷との関係についていろいろと憶測する説があるが、この結論がでないことには、前提が成り立つのかどうかすらはっきりしないということを意味する。, 平成17年(2005年)に作家円堂晃が著書に書いた説もこれに当たる。毛利氏との決戦を控えていたが毛利方はよくまとまり、亡命した足利義昭を擁して大義名分を持っていた。そのため、信長は状況打破のため征夷大将軍に任官および義昭の将軍解任を朝廷に求めていたが、朝廷はなかなか認めようとしなかった。そこで信長自身が光秀の軍勢を二条御新造に差し向けて、朝廷を威嚇して要求を強引に認めさせようとしたが、それを光秀に利用されて謀反を起こされたという説[331]を唱えた。しかしながら、毛利方は本能寺の変の2年前にあたる1580年に毛利方から織田方に鞍替えした宇喜多氏を攻めるため小早川隆景を総大将とする大軍を送ったものの「辛川崩れ」「加茂崩れ」と続けざまに一方的な大敗を喫している。この当時毛利は織田はおろか宇喜多にすら勝てない状態であり、畿内に攻め込むことは現実的に不可能であるため本説も信憑性に乏しいと言える。, 天正3年9月に北ノ庄を拝領して以来、北陸は柴田勝家が管轄していた。謙信亡き後に御館の乱が起きた時、信長はその間隙を突いて越中に狙いを定める。天正6年4月7日、追放されていた(信長の義兄にあたる)神保氏張に黄金百枚を与えて帰還させると、飛騨の姉小路頼綱にこれを支援させた[53]。飛騨路より神保長住を先鋒とする織田勢が攻め寄せると、上杉家重臣河田長親と椎名道之は津毛城に拠って防戦したが、9月24日にさらに援軍として斎藤利治が出陣したと聞き、退却。放棄された津毛城に長住が入った[54]。10月4日、利治は月岡野の戦いで上杉勢に大勝[55]し、織田勢は翌年までに富山城を陥れて、越中の西半分を平定した。一方、越後では天正7年(1579年)3月24日に景虎が自害して乱は終息するものの、上杉景勝は残党狩りと越後平定に忙しくて反撃する余力がなかった。加賀国は孤立状態になり、天正8年閏3月9日、越前より再び侵攻した勝家は一向一揆の徹底した鎮圧に着手した[56]。同時に越中森山(守山)より長連龍が能登に侵攻し、閏3月30日、温井景隆・三宅長盛兄弟を飯山で撃破した[57]。末森城・土肥親真は降伏し、温井・三宅兄弟は信長に陳謝して能登半国を差し出すことで許された[58]。5月頃までに能登・加賀の大半は平定され、佐久間盛政が調略にて加賀尾上城を落して[59]、11月17日には一向一揆の首謀者が梟首[60]に処された。信長は能登の国政を前田利家に委ねると決めて取りあえず飯山城に入れ、富木城に福富秀勝が、七尾城に菅屋長頼が城代として派遣された[61]。, ところが北陸三国が平定されたのも束の間、天正9年2月から3月にかけて、馬揃えのために、勝家・勝豊・不破光治・金森長近・原政茂・利家などの越前衆、佐々成政・長住などの越中衆の諸将が上洛して手薄になると、その隙に上杉景勝の増援を得た河田長親が越中で反撃に出た。上杉勢は松倉城より出撃して、3月9日に小出城を包囲し、扇動された一向一揆の残党が白山麓から加賀に攻め込み、別宮城・府峠城を攻め落としたのである。しかし尾上城主として留め置かれていた盛政が即座に反撃して府峠城を奪還し、安土に急報する。この間、越前衆は2月27日に馬揃えに参加し、越中衆は3月6日に遅れて上洛した。15日に安土で信長に拝謁した北陸衆一同は帰国反撃を命じられて昼夜を徹して移動。24日、成政・長住が小出城の救援に来ると聞いて長親は包囲を解いて撤退し、成政は守山城に入った。信長はその迅速な成功を喜び、成政を越中の守護に任じると言った[62]。5月、織田勢に包囲されていた松倉城で長親が死去した[63]。6月27日、七尾城で遊佐続光ら3名がかつて叛逆したかどで切腹を命じられ、これを聞いた温井・三宅兄弟は次は我が身と恐れて出奔した。7月6日、越中木舟城主石黒成綱主従が上杉への裏切りを疑われて近江に誘い出され、丹羽長秀が誅殺した[64]。能登では主城以外の城砦が破却され、利家は七尾城に移った。, 天正10年3月、武田勝利の誤報を信じた一揆が越中に起こり、小島職鎮と一揆勢が富山城を落として長住を監禁した[65]事件を機に、勝家ら北国諸将に出陣の号令が出された。成政と盛政は先陣争いをして不仲であったが、勝家は両名を先陣に指名した。魚津城の戦いの包囲中、5月16日、景勝は天神山城に後詰で入リ[66]、下知を受けた長景連が海路から能登に侵入して棚木城を奪った。5月21日、利家は長連龍と共にこれを攻略し、景連の首を勝家の陣中に届けた[67]。信長も利家の勝利を喜び、海津城の森長可が信州より春日山城を襲い、上野厩橋城の滝川一益も、三国峠を越えて越後に乱入するので、天神山城から撤退するであろう景勝を追撃するように勝家に準備を指示していた[68]が、変があって実現しなかった。, 天正5年10月23日、播磨に出陣して以来[69]、中国は概ね羽柴秀吉が管轄した。中国役当初の毛利氏は12ヶ国にまたがる大勢力で、流浪の将軍足利義昭を擁し、石山本願寺三度目の挙兵とも組んで信長包囲網を形成していたので、中国経略は信長の前に立ち塞がる最大の未完事業となっていたが、この時点では謙信が存命で勝頼とも事を構えていたために自ら出向くことはなかなか難しく[70]、「手の者」[71]として最も信頼できる秀吉が起用された。秀吉自身にとっても、少し前に勝家と仲違いをして北陸から無許可で引き揚げたことで信長の勘気を蒙ったので[72]、この機会に忠勤に励んで信長の知遇に報いて見せる必要があった。, 播磨で前年に御着城主小寺政職が黒田孝高(小寺孝隆)の策に従って信長に帰順したことが、織田勢力を引き入れる端緒となったが、秀吉は出陣すると赤松三十六家衆に人質を出させ、但馬に侵攻して11月中旬に岩洲城、竹田城を攻略して秀長を入れた[69][73]。秀吉は次に11月27日、赤松政範の籠る播磨上月城を包囲し、竹中重治と孝高には福原城を攻撃させた。救援に来た宇喜多直家は遠巻きにするのみで、12月1日に福原城が落城し、3日に上月城も落ちた。秀吉は、政範の首を差し出して助命を嘆願する城兵を許さずに尽く切伏せ、上月城には尼子勝久・山中幸盛の主従を入れた[74]。10日、信長は播磨・但馬平定を喜び、恩賞として秀吉に乙御前釜を与えた[75]。, ところが、天正6年2月23日、7千の兵を率いて加古川城に入った秀吉との軍議の席で気分を害した別所賀相が、甥長治を説得して反旗を翻し三木城に籠城すると、志方城の櫛橋治家、神吉城の神吉長則、高砂城の梶原景行、野口城の長井四郎左衛門、淡河城の淡河定範、端谷城の衣笠範景と次々と呼応。秀吉は重棟に説得させたが長治は拒絶したので攻撃して4月3日に野口城を落すが、直家の要請で攻め寄せた毛利勢が上月城を包囲した[76]という報せで引き返す。秀吉は荒木村重と共に2万を率いて高倉山に陣取ったが、小早川隆景2万、吉川元春1万5千、宇喜多忠家1万4千からなる敵はさらに多勢であった。増援を求められた信長は自ら出陣すると言い出したが重臣が反対。結局、4月29日に滝川・明智・丹羽が、5月1日に信忠(総大将)・信雄(信意)・信孝・信包・長岡藤孝・佐久間信盛が出陣した[30][77]。戦線が膠着すると、6月16日、秀吉は京に戻って信長の下知を受け、上月城救援を断念して三木城攻囲に専念する。21日、高倉山から陣払いすると、7月3日、勝久は諦めて切腹し、上月城は落城した。6月27日より信忠は神吉城を攻めていて、三木城の兵糧道を断とうとした。7月16日に神吉城の天守閣は炎上。信盛の誘いで城将が投降し、志方城も明け渡された[78]。三木城は補給困難となり、毛利勢も撤兵して「三木の干殺し」が始まるが、10月に村重が謀反を起こし、政職も呼応して離反したために一時中断を余儀なくされる[79]。, 天正7年2月、この機に別所勢は平井山の攻囲軍に逆襲を試みたが撃退され、治定が討死した[80]。村重は抗戦1年余の9月2日に有岡城を脱出して大物城に逃亡し、4日には宇喜多直家が秀吉の降誘に応じた。この調略は信長に無断であって激怒されたが、10日、毛利勢が海路から来て御着城・曾禰城・端谷城の城兵と共同し三木城へ兵糧を運ぼうとして平田村で谷衛好の砦を襲い、急を駆けつけた秀吉が大村で迎撃して大勝したので、その際に許されて信長より感状を受けた[81]。 火伏せの銀杏は本能寺の変の後に移されてきたと言われています。火伏せの銀杏は高さ約30メートル・幹周り約5メートルです。火伏せの銀杏は1788年(天明8年)の天明の大火の際に木から水を噴出し、寺町三条界隈の人々を火災から救い、火伏せの銀杏と言われるようになったそうです。 大宝殿宝物館(だいほうでんほうもつかん)では破却・兵火・火災などを潜り抜けた三足の蛙(香炉)・梅樹雉雀文様銅鏡(ばいじゅきじすずもんようどうきょう)・建盞天目茶碗(けんさんてんもくぢゃわん)などの文化財を展示・公開しています。なお大宝殿宝物館は1998年(平成10年)に建設されました。なお大宝殿宝物館は鉄筋コンクリート4階で、5層には宝形堂があります。 10月3日(土)より本能寺で特別展「本能寺の変と天下人たち」が開催されます。 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の書状や、「本能寺の変」に関わる史料が展示されるとのこと。 期間: 2020年10月3日〜2021年1月31日 9:00〜17:00(最終入館16:30) 休館日: 信長公御廟所拝殿は登録有形文化財です。信長公御廟所拝殿は本堂の南側にあります。信長公御廟所拝殿は1928年(昭和3年)頃に再建されました。なお信長公御廟所拝殿は木造平屋建の銅板葺です。 ●三足の蛙には本能寺の変の前夜、蛙が突然に鳴き、織田信長に異変を知らせたという伝承が残されています。 ●源妙院は第13世・日堯聖人が創建しました。 (本能寺 放生会・ポイント) ●恵昇院は1574年(天正2年)久成坊隆詠上人が創建しました。恵昇院は牡丹を像った瓦など牡丹にゆかりがあり、牡丹坊とも言われているそうです。 ●梅樹雉雀文様銅鏡は重要文化財です。, 【本能寺 臥牛石・見どころ】 龍雲院(アクセス・・・), 【本能寺 本能寺跡・見どころ】★修学旅行 ●本行院は第12世・伏見宮日承聖人が創建しました。 (アエラドット), https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920813/77, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/60, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971162/230, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772514/58, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441725/75, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/770215/67, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920302/50, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920418/219, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1259252/151, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1259252/16, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778092/119, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912983/28, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936494/47, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936493/124, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1140509/145, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993836/401, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223706/243, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223718/224, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223724/38, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1172005/176, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1172074/65, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932798/129, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1218244/242, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771064/4, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=本能寺の変&oldid=80419927, 滝川一益は当初より後北条氏との取次役であったが、甲州征伐では信忠の補佐役も務めて、3月11日に天目山で武田勝頼父子を自害させて首を取るという大手柄を挙げた。, 事件を起こした動機には触れても、黒幕とされる人物や集団が、どのようにして光秀と接触したかの説明がない。.

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